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HOME > 伯耆古城図録 ~日野郡篇~ > 美女石城 > 同好会活動日誌

◆美女石城

 

【 概 略 】

草創は不詳。毛利氏の家臣、天竺元氏が在城したと云われる。

 

北から西にかけての大谷川、東の日野川を天然の川堀として利用し、南側は切岸や石垣で備えている。

大谷川を挟んで北に居館(天竺屋敷)を置いていたことから、当城は詰めの城と考えられる。

 

伯耆志には久連村の条、古城の項に以下の記述が見える。

 

「美女石城と号す。天竺三郎四郎元氏、天正の初年、此の地に住居すと云へり。

 残礎の存する所を美女石と云ふ。天竺氏、当時佐川村を領し、当村は生山村の住人景行知行せしと云へり。天竺氏の事、佐川村住田氏の條下見るべし」

 

生山村の住人景行は山名景幸と思われる。

 

日野郡史 前篇には、久連の美女石城の項に以下の記述が見える。

 

「字美め石(美女石)に在り。東に面し山麓前は日野川なり。天正の初年頃、天竺四郎三郎元氏の居城ありし由」

 

1582年(天正10年)、あるいは1585年(天正13年)、天竺元氏が伯耆国から備中国へ移った以降の詳細は不明。

 

1601年(慶長6年)、中村氏による伯耆国の統治が始まると中村家の執政家老、横田村詮から下安井の太郎左衛門へ宛て、

佐川と美女石の境界を日野川とする裁許状が発給されている。(5月20日付)

 

 巳上

 

  下安井之内美女石従佐川論地之由候 境目者日野河切申付候 間巳来可或其意者也

 

 内膳正 村詮

 

  丑 五月廿日  下安井役人 太郎左衛門

 

 

地元の伝承では後醍醐天皇が通った道とする言い伝えがあり、主郭に残る祠は「あたまのかみ(上の神)」と呼ばれている。

後醍醐天皇に縁があるとも云われ、対をなす「しものかみ(下の神)」も存在すると云う。

 

地元では「美女石」を「びじょぅし」「びじょし」などとも呼ばれている。

 

江府町史(昭和50年発行)では天竺屋敷の位置を当城として写真を掲載していたが新修江府町史(平成20年発行)では記述が見えなくなっている。

 

【 遠 景 】

佐川からの遠望

西からの遠望

美女石

【 概 要 】

名 称美女石城(びじょいしじょう/びじょしじょう/びじょぅしじょう)

所在地:鳥取県日野郡江府町久連

築城年:不明

築城主天竺氏

城 主:毛利氏…天竺三郎四郎元氏

文 献:伯耆志、鳥取縣神社誌、新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ(平成24年6月発行:鳥取県神社誌編纂委員会)、

    日野郡史 前篇(昭和47年4月発行:日野郡自治協会)、江府町史(昭和50年12月発行:江府町史編さん委員会)、

    新修江府町史(平成20年6月発行:江府町史編纂委員会)

形 態:丘城

遺 構:郭跡、切岸、川掘、石垣、土塁、虎口

現 状:畑地、山林

種 類:史跡指定なし

登城難易度⇒★★★(難しい)

【 地 図 】 日野郡内の城跡

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

不明

不明

草創不詳とある。

天正元年

1573年

備中国軽尾城の城主、天竺三郎二郎元氏が当城へ転移したとされる。(伯耆志)

天正10年

1582年

当城の城主、天竺三郎二郎元氏が備中国軽尾城へ転移したとされる。(伯耆志)

天正13年

1585年

天竺三郎治郎元氏が佐川神社を造営とある。(鳥取縣神社誌、新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ)

慶長6年

1601年

5月廿日、横田村詮から下安井の太郎左衛門へ宛て、佐川と美女石の境界を日野川と決める裁許状が発給される。

【 写 真 】(訪問日:2015/06/28、11/15) 

南側の民家裏に登城道

登城道は「あたまのかみ」へと続く

「あたまのかみ」と云われる主郭の石垣

主郭の石垣

主郭には「あたまのかみ」と云われる祠

祠の様子

主郭の様子

主郭の様子

主郭の様子

主郭から南一郭への土橋

土橋

南一郭の切岸

南一郭切岸の礎石

南一郭は多段(畑跡?)

切岸に礎石跡が見えることから畑跡?

南一郭の多段の様子

南一郭の多段の様子

南一郭の石垣(東腰郭上部)

南一郭から東腰郭

南一郭から西腰郭(畑地)

南一郭から南西へ古道

南西の山中に堀切

南西の山中に虎口?

南西の山中の土塁?

南西の山中に虎口?

南西の山中に虎口(下から)

【同好会活動日誌】

お隣の天竺屋敷に続いて案内板を頼りに美女石城にも登ってみたけど、石垣が残っていたり、

後醍醐天皇に関する伝承が残っていたり、詳細不明の城で片付けるにはもったいないお城だね。

案内板の縄張り図には2段の郭跡までしか描いてないけど、南西に向かって城域と思われる構造が

続いているようなので、今後の本格的な調査が臨まれる城跡かな。

天竺氏が城主だった…程度の情報しか見えないけど、城跡と屋敷跡に石垣の跡が見られるのは

興味深いわね。

天竺氏が伯耆国に入った頃、江尾城が吉川氏によって近代城郭への改修が行われたことを考えると、

美女石城も元々山城としてあった施設に天竺氏が改造を施した可能性も考えられるわね。

北の主郭に祠があって、伝承には後醍醐天皇が通った道があるそうだけど…。

ちなみにその祠は「あたまのかみ」と呼ばれてるみたいだよ。

江府町には後醍醐天皇に関する伝説がもう一つ、御机に残っているわね。

(この話は御机城を攻めた時にでも)

 

考えられるとすれば隠岐から脱出した時ではなく、船上山での戦いに勝利した後、

京へ向かうために岡山を目指した道中に通った可能性は十分にありそうね。

「あたまのかみ」と呼ばれる祠はその時に安全を祈願したものか何かかな?

「あたまのかみ」についてはわかったけど「しものかみ」は何処にあるの?

…げ、現在捜索中よ。

それらしい場所は聞いたけど見つけられなくて。

宿題にしつつ、引き続き調査していく予定~