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HOME > 伯耆古城図録 ~日野郡篇~ > 如来堂 > 同好会活動日誌

◆如来堂

 

【 概 略 】

伯耆志には中菅村の条、城跡の件に以下の記述が見える。

「(略)瀧山龍王権現と称す瀧より(缺字)に不動寺と云ふ地あり。陰徳太平記に如来堂と云へる是なり。寺の跡、今に存す」

 

伯耆民談記では以下の記述が見える。

「滝山龍王権現の滝より里程半道も下り、不動寺と云う処あり。陰徳に云ふ如来堂も此所なり。古寺の跡、今も残る」

 

陰徳太平記(巻第三十七)の「伯耆国日野之不動ヶ嵩夜討事」では尼子方の福山肥後守に内通した一揆衆の四郎太夫から、

不動寺の如来堂に香川左衛門尉光景が陣を敷いていた事が伝えられている。

その陣容は「構えの浅間にして勢も又寡く、夜討にてたちどころに討ち取れるであろう」と評している。

 

1564年(永禄7年)6月7日、福山肥後守は一揆衆の蜂起に合わせて如来堂への夜討を画策し進軍を開始するが四郎太夫ら一揆衆の動きは

直前に香川光景の妾であった日野の庄屋の娘から伝わることとなり、香川光景も僅かだが夜襲へ備えることができたとされる。

 

同日夜中~翌日未明、福山肥後守らの夜襲に対して最低限の備えはあれど多勢に無勢であり、香川光景の武勇と知略を以ってしても如来堂から

逃げ遂すだけでやっとの状態であった。

土居ノ内の館に所在したと考えられる三村修理亮家親は不動寺の方角から聞こえる関の声に香川光景は討たれたものだと涙していたところ、

戦場から逃げ遂せ、館の門を叩く人物が香川光景と確認すると死んだ者が生き返った思いで手を取り喜んだとある。

 

明けて6月8日、毛利方は香川光景入江与三兵衛利勝境備後守経俊以下350騎、三村家親率いる1,000騎を2隊に再編成し、

不動ヶ嶽を下り福山肥後守が陣する日野の村へ左右から迫ったとされる。

 

対する尼子方の福山肥後守は手勢500騎、一揆衆合わせて700~800騎程の戦力で迎撃したとあるが、一揆衆が崩れると福山肥後守も撤退。

この時、福山肥後守の手勢40~50名程が討ち取られたとある。

散り散りになり隠れていた一揆衆もその殆どが探し出された後、一揆に加担した罪で処刑されたと云われる。

香川光景に夜襲の詳細を告げた庄屋の娘は情報を流す代わりに一揆に参加した近しい者達の助命を嘆願しているが受け入れられたかどうかは不明。

 

この不動ヶ嶽での戦の後、三村家親は伯耆国法勝寺城へと移るがそこで再び福山肥後守と戦っている。

【 遠 景 】

北側からの遠望

最北端の郭跡からの遠望

中央の低地が伝・不動寺跡

【 縄張図 】

存在せず

【 概 要 】

名 称如来堂(にょらいどう)

別 名:不動寺(ふどうじ)

所在地:鳥取県日野郡日野町中菅字不動寺

築城年:不明

廃城年:不明

築城主:不明

城 主:毛利氏…香川左衛門尉光景

文 献:陰徳太平記、伯耆志、伯耆民談記、伯耆民諺記、日野郡史(昭和47年4月 日野郡自治協会)

形 態:陣(平城)

遺 構:郭跡、石垣、川掘

現 状:原野、山林、畑地

種 類:史跡指定なし

登城難易度⇒★★☆(やや難しい)

【 地 図 】 日野郡内の城跡

【 年 表 】

年号 西暦 出来事
永禄7年

1564年

3月上旬、三村修理亮家親香川左衛門尉光景が伯耆国への侵攻を開始し、所々を打ち払い、焼き払うなどして北国からの

糧道を断ったとあり、国境周辺で尼子方に与する伯耆国側の城は5~6城であったとされる。

この頃、不動寺の如来堂に香川左衛門尉光景が陣を敷いていたとされる。

 

6月7日、尼子方の福山肥後守尼子義久から預かった500騎で如来堂へ向け進軍。

同日夜中~翌日未明、四郎太夫率いる一揆衆の蜂起と福山肥後守の夜襲により香川光景三村修理亮家親の館へと

逃げ遂せたとある。

 

6月8日、毛利方は香川光景入江与三兵衛利勝境備後守経俊以下350騎と三村家親率いる1,000騎を2隊に分け、

福山肥後守が陣する日野の村を挟撃し福山肥後守を敗走させた後、一揆衆を殲滅したとされる。

【 写 真 】(訪問日:2016/04/02) 

北西の山林の林道から登城

林道入口には祠

林道の地質は大変脆く崩落の危険あり

林道から不動寺の集落

主郭の様子

主郭の様子

主郭西側の川堀と石垣

主郭には礎石の残骸が多く残る

一段下がって北二郭の様子

北二郭の様子

北二郭の石垣(北三郭から)

北二郭の石垣(北三郭から)

北三郭の様子

北四郭の北端には石積み(堤防?)

北四郭

北五郭

川堀から北側の様子

【同好会活動日誌】

不動ヶ嶽城の戦いとされる戦の舞台ね。

 

今のところ不動ヶ嶽城の正式な場所は特定されていないけど、伯耆志や伯耆民談記ではこの不動寺周辺に村があったみたいで、

伯耆志の城跡の件ではこの村から東に2町(2丁)、おおよそ220m程の所を城跡(字丸山)、そこから10町(10丁)、

おおよそ1,100m程の所が古戦場「不動ヶ嶽」としているわね。

伯耆民談記では龍王権現の瀧から里程半(1里半?) 、おおよそ6,000m道を下れば不動寺としているから、

龍王権現の瀧(龍王神社の龍王滝)からの位置も大体あってるみたいね。

総合的に判断すると字丸山が不動ヶ嶽城を指していると見るのが妥当かな?

 

大永の五月崩れにも不動ヶ嶽城の名前が出てくることから当時の日野郡内では一番大きな城砦だったと考えられるので、

丸山だけを不動ヶ嶽城とせず、字不動寺、字丸山、字土居ノ内、古戦場の不動ヶ嶽、

これらを全てまとめて不動ヶ嶽城とするのが自然かもしれないわ。

不動ヶ嶽城って「しろ凸たん」始まって一番最初に紹介したお城だよね…

当時は大永の五月崩れに出てくる城なのできっと大規模だと思って丸山は無視してたけど…

実は丸山が不動ヶ嶽城で正解?

大永の五月崩れの戦況がわからないので三村家親、香川光景と福山肥後守の戦いから推測するしかないけど、

その時の戦いで毛利方は1,350騎、対する尼子方は7~800騎。

 

尼子方は尼子義次から預けられた足軽500騎と一揆衆200~300が加勢と考えられるので現地から毛利方への徴用はほぼ無しかな?

一揆衆は山の麓に配置して、本隊の500騎程度なら丸山にも籠もれそうね。

 

毛利方は香川光景が多くて50人程で不動寺に在陣していたらしく、そうなると三村家親が有した兵力は1,300騎程。

香川光景が夜襲を受けた後、半日かからず部隊を再編成し反撃していることを考えると近くに駐屯地があったことは間違いなさそう。

ただ、丸山だけに1,000人を越える兵力の駐屯が可能だったか…と考えると規模的に微妙なのよね。

 

香川光景が夜襲のことを耳にした時点で手を打ち、三村家親が備後国への援軍要請を出していれば1日程度で備後国から増援が

来ることも考えられるけど、それだけの対策ができていたら香川光景が討たれるかもしれないような事態もなかったと思うので、

やはりこの戦いでは三村家親の手勢だけで戦ったと考えるのが自然な気がするわね。

 

じゃあ1,000人規模の兵力は何処に居たか。

黒坂要害山城や黒坂城が考えられそうだけど、尼子方が攻めてきたのは南部町方面からのルートと想定されるので、

もしも黒坂周辺に倍の兵力が配備できていたら福山肥後守は日野川すら越えられなかったでしょうね。

 

三村家親が土居ノ内の居館に居たと考えられることからも、黒坂方面の配備は考えにくい…。

となると土居ノ内周辺から伯耆国と備後国を繋ぐルートの終端、不動ヶ嶽の麓周辺が候補にはなりそうね。

 

最初に登った不動ヶ嶽だけど、道に沿って数名が配置できる櫓跡のような施設は多々あれど、兵馬の駐屯に向くような平坦地は

登山口付近にしか確認できなかったので、不動ヶ嶽城を何処までの範囲にするかは今後の研究に委ねるところかもしれないわね。

しろ凸たんでは字不動寺、字土居ノ内、字丸山、不動ヶ嶽をまでの広い城域が不動ヶ嶽城だったのかな?

と考えて引き続き調べてみますよ。