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HOME > 伯耆古城図録 ~日野郡篇~ > 根雨要害 > 同好会活動日誌

◆根雨要害【訪問日:2014/05/17】 登城難易度⇒★★(普通)

     【再訪問日:2014/05/24】 登城難易度⇒★★★(難しい)

【 概 略 】

一般には字要害に所在することから「根雨要害」と呼ばれ、別名で「根雨城」とも云われる。

伯耆志及び日野郡史には以下のような記述が見える。

「要害と呼べり驛の東二丁許の山地なり。古炭の出る事往々あり。五輪塔あり」(伯耆志「根雨驛」の条)

「字要害に在り、西に面する山嶺なり。馬田次郎兵衛の居城ありし由」(日野郡史、日野町誌)

 

治山工事のための林道整備によって西の主郭(とされる空堀を持った郭跡)と東の郭跡群に分けられ、

林道の場所には元来、堀切があり土橋も通っていたと推測もできるが堀切の北側は一部が埋められ、

土橋も開削されて現在のような切通状の林道になったと考えられる。

 

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)では西の郭跡を主郭と推定している。

東の郭跡群の方が標高は高いのだが、郭跡の造りが雑であると評され主郭とは認められていない。

(一般的に山城の主郭は標高の高い方に置かれる)

 

西の主郭とされる郭跡は街道を見張る櫓などの索敵施設を置き、東の郭跡群はここより東に所在する

伯耆国上代ヶ原城との連携を考えての運用と推測されている。

【 遠 景 】

主郭とされる西の郭跡(林道から)

造りが雑と評される東の郭跡(林道から)

【 概 要 】

名 称根雨要害(ねうようがい)

別 名:根雨城(ねうじょう)

所在地:鳥取県日野郡日野町根雨

築城年:不明

築城主:不明

城 主馬田次郎兵衛

文 献:伯耆志、伯耆誌、日野郡史、日野町誌

形 態:山城

遺 構:郭跡、堀切、空堀、竪堀、土塁、土橋、井戸跡?

現 状:山林

種 類:史跡指定なし

【縄張り】

根雨要害略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

 

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

不明

不明

馬田次郎兵衛の居城と云われる。(伯耆誌)

【 写 真 】

主郭と推測される西の郭跡への登城口

主郭の切岸沿いに登城道が続く

登城道を進むと北の竪堀

主郭を囲む空堀(空堀内から)

主郭を囲む空堀(土塁の上から)

西側の腰郭

空堀付近から主郭へ続く登城道

主郭の様子

主郭は丁寧な造成がされている

眼下に街道や根雨の町並みが見えることから

櫓台など見張りの設備を置いたとも考えられる

主郭の土塁

主郭東側

主郭から根雨の町並みと日野川

主郭南側の竪堀

竪堀の東には堀切(林道によって一部改変)

堀切は谷底まで続く

西の主郭と東の郭跡を繋ぐ土橋状の郭跡

土橋状の郭跡の様子

東-西二ノ郭(土橋の東側)から土橋

東-西二ノ郭(土橋から)

東一ノ郭

造りが雑と酷評されるが…

東一ノ郭の井戸跡?

東一ノ郭と東-東二ノ郭を隔てる大堀切

東一ノ郭と東-東二ノ郭を隔てる大堀切

堀切を越えると東-東二ノ郭

東一ノ郭の南側腰郭

東一ノ郭の北側腰郭

東一ノ郭から北の出丸への道

【同好会活動日誌】

今回は2回登城を行って、

1回目は日野町図書館の方に案内していただきました。

雑草も少なく簡単に見て回れましたがカメラを忘れる始末。。。

(ホント言うと最初に来た日は登るつもりなかったんだよね…)

で、2回目の一週間後に再度訪れたワケなんだけど…たった7日の間で別世界。

西の主郭は鬱蒼とした緑に飲み込まれて…予定より少し苦労したわね。

でも、かろうじて西の主郭からは根雨の町並みがきれいに見えたので

悪くはなかったよね。

…西の主郭はまだ良かったけど、林道を挟んだ東の郭跡群は苦労したわ。。。

 

ひょっとすると、いつもの事ながら登る場所を間違えているかもしれないけど、

久々に登るのを断念しかけた山城だったわね。

(今回、東一ノ郭の東にある堀切の麓から直登しましたよ…)

西の主郭に比べて藪化はそんなに酷くはなかった気がするけど、

斜面を登るのは一苦労だったよね。

おまけに登った直後、真新しい猪の糞を見つけて…

怖くて東の堀切を越えた東-東二ノ郭には結局辿り着けなかったよ(T-T;

この企画で怪我人や人死にが出たら色々とおしまいだからね。

基本は安全第一、人命最優先。危険を感じたら素直に退くのも勇気なのよ。

 

ましてや私達が猪や熊など動物によって怪我した…なんてことになって

無関係の動物なんかも駆除対象になってしまったら可哀想だし申し訳ないからね。

東-東二ノ郭は寒くなって動物たちが冬眠する頃になったら登りましょう。

ちなみに、城跡に関しては伯耆志に数行程度、記されるのみだそうです。