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HOME > 伯耆古城図録 ~倉吉市篇~ > 今倉城

◆今倉城

※今倉城の城域はほぼ全て個人所有地となります。所有者の許可無く登城はされないようお願いします。

 

【 概 略 】

国府川(こうがわ)の西側に所在する。字名に「城山(しろやま)」「城の前」「城の内」と残り、現在でも屋号として使われているとのこと。

別名に「島田城」とも伝わるが、これは城域がかつての今倉村と嶋田村の境界上にまたがって所在したからとされる。(伯耆民談記)

1579年(天正7年)、南条氏が織田方へ属すると吉川元春により南条氏の領する伯耆国岩倉城への押さえとして築城されたと伝える。

 

伯耆民談記では今倉城の条に以下の記述が見える。

「八代郷今倉村にあり。陰徳太平記に述ぶる嶋田の城のことなり。嶋田今倉連綿たる邑にて、

 然かも両村の境界にある城なれば島田の城と述べしも理りない。

 吉川元春、天正七年に岩倉の向城として築き、正寿院小鴨四郎次郎鈴川次郎左衛門を籠め置きたり。

 天正十年、芸京和睦の後は当城、羽衣石の領と成りて南条か与力の士、須藤丹波居住す。丹波は猛悪の士にて、

 当国の国造石川何某を聊かの口論に依って焼打に討滅し、其外羽衣石の命令に背くこと度々有りて文禄年中、南条か為に滅亡しぬ。

 夫より間もなく慶長五年、羽衣石滅却の時、当城も廃亡せり」

 

1579年(天正7年)~1585年(天正13年)頃までは南条方に対する毛利方の重要拠点として吉川氏の部将、

正寿院利庵小鴨四郎次郎経春鈴川次郎左衛門が在番したとされる。

 

1585年(天正13年)、中国国分によって東伯耆を南条氏が領することなると南条氏の臣、須藤丹波が在城とある。

須藤丹波は国造石川氏を滅ぼし、領内で横暴の限りを尽くすなど南条氏の意に反する行いが多かったことから

文禄年中(1592年~1596年)に南条氏によって誅され滅ぼされたと伝える。

 

1600年(慶長5年)、伯耆国羽衣石城の破却と併せて廃城とされる。

 

日本歴史地名大系32巻 鳥取の地名では1734年(享保19年)、鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」に以下の記述が見えるとある。

「村ヨリ西ニ当テ古城有。大藤丹波」

 

「大藤丹波」は須藤丹波のことと考えられる。

 

現在、城跡とされる場所には民家が建ち、一部に土塁が残るのみで付近を流れる水路は外堀の名残とも。

城域内にお住まいの方の話では昭和9年まで内堀、外堀が現存していたが同年に内堀を埋め現在の住宅を建てたとのこと。

発掘調査では馬の骨も出土している。

【 遠 景 】

北西からの遠望

北東からの遠望

字城山の様子

【 縄張図 】

今倉城略測

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 概 要 】

名 称今倉城(いまくらじょう)

別 名:島田城/嶋田城(しまだじょう)、今倉砦(いまくらとりで)

所在地:鳥取県倉吉市福光

築城年:1579年~1580年(天正7年~天正8年)

廃城年:1600年(慶長5年)

築城主吉川元春

城 主:吉川氏…正寿院利庵小鴨四郎次郎鈴川次郎左衛門

    南条氏…須藤丹波

文 献:伯耆民談記、伯耆民諺記、陰徳太平記、

    新修 倉吉市史 第二巻 中・近世編(平成7年3月発行:倉吉市史編集委員会)、

    倉吉市文化財調査報告書第27集「今倉城跡・今倉遺跡発掘調査報告書」

    (昭和58年:倉吉市教育委員会) 、

    日本歴史地名大系32巻 鳥取の地名(1992年10月:平凡社)

形 態:平城

遺 構:郭跡、堀切、土塁、水堀(薬研堀)、櫓台(矢倉?)

現 状:住宅地、畑地、竹林

種 類:文化財指定なし

登城難易度⇒★★☆(やや難しい)

【 地 図(倉吉市内のお城一覧) 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

天正7年~天正8年

1579年~1580年

南条氏の領する伯耆岩倉城への押さえとして吉川元春による築城と伝わる。

天正8年~天正13年

1580年~1585年

吉川氏の部将が在番したと云われる。(正寿院利庵小鴨四郎次郎鈴川次郎左衛門

天正11年 1583年 この頃、須藤丹波が入城したとの説も見える。

天正13年

1585年

中国国分によって東伯耆は南条氏の領地となり南条氏の臣、須藤丹波が在城とされる。

文禄年間

1592年~1596年

横暴の限りを尽くしたことで須藤丹波は南条氏によって誅されたと伝わる。

慶長5年 1600年 伯耆国羽衣石城の破却と併せて廃城されたと云われる。
昭和9年 1934年 住宅の増築工事により西側の内堀を埋めたと云われる。

【 写 真 】(訪問日:2015/05/24)

字城の内の様子

字城の内の様子

字城の内に五輪塔

外堀の名残(西側)

外堀の名残(西側)

南の突出部

外堀(北側)

外堀(北側)

外堀(北側)

北東の土塁

北西の土塁(右手は埋められた内堀)

北西の土塁

北西の土塁の様子

北西の土塁の様子

北西の土塁の様子

北西の土塁の様子

北西の土塁端の櫓台

北西土塁内の郭跡から櫓台

北西土塁内の郭跡の様子

北東の土塁

北東の土塁

北西から少し道を進むと五輪の残骸

【同好会活動日誌】

現地には辛うじて土塁と堀の跡が遺構として見られるわね。

西側の水路には外堀の名残も見られるようだけど、内堀は昭和9年に住宅建設の時に埋めたと情報も得られたわ。

 

ちなみに堀には水を張っていた事が発掘調査でわかっているみたい。

 

遺構の殆どは消滅してしまったけど、一応、発掘調査はされているようで馬の骨などが出土したそうね。

当時の調査では城は方形単郭だけど南側に張り出した逆「凸」形のお城だったみたいよ。

北西から北東、主に北側だけど土塁と薬研堀が残ってるっぽいね。

内堀を埋めて建てた家の方に話を伺ったけど、堀を埋めた所は地盤が弱くて家が傾いてるらしいよ…

今となっては一部の土塁と堀の名残しか見れないけど、吉川元春が南条氏の岩倉城を押さえるために築かれた城なので

歴史の部分に関してはかなり面白そうな城ね。

あたしは須藤丹波の悪人っぷりが印象に残るお城だったよ…