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◆打吹城【訪問日:2013/05/06】 登城難易度⇒★★☆☆☆(普)

標高204メートルの打吹山山頂を中心に築かれた山城。東伯耆にある城の中でも最大級の規模を誇った。

特に史跡の指定はなされていないようで、山頂部主郭の天守台に城址の碑が建つ。

主郭の石垣。徹底的に破却が行われた城であり、その時の残骸が無造作に放置されている。

主郭南側の虎口。長細い礎石が目印。

主郭北側の虎口。南側の虎口とは対照的に藪化が酷く不明瞭。

主郭の北西部と南西部には木戸があったとされる。

主郭北西部には土塁を配した郭跡が残っている。

主郭北西部にある瓦の散布地。この付近に井戸跡と思われる窪みが見られた。

主郭北側の空堀。

備前丸とその石垣。

小鴨丸。藪化が酷く探索は断念。

武者溜り。

堀。山からの湧き水が若干流れていた。

山中には空堀、竪堀、横堀、畝状竪堀、堀切など、あらゆる種類の堀が点在している。

登城道の脇には石垣などの礎石跡が点在している。

登城口は大きく2つ、打吹公園側と鎮霊神社側からの道があるが鎮霊神社側はほぼ地道で険しいため、

楽しく登ろうと思うのであれば打吹公園側からの登城がお勧め。

鎮霊神社側の道は遺構が多く見られるため、遺構の調査が目的の人は鎮霊神社側の道がお勧め。

鎮霊神社側の登城道。道が狭く傾斜もあり少々険しい。

打吹公園側の登城道。道が整備されていて勾配も緩いので楽しく山頂を目指すならこちらから。

備前屋敷があったとされる鎮霊神社。この右手奥に難易度の高い登城道があります。

―概 要―

名 称:打吹城/宇津吹城/宇津葺城(うつぶきじょう)

別 名:倉吉城(くらよしじょう)

築城年:1356年~1361年(延文年間)

所在地:鳥取県倉吉市仲ノ町

築城主:山名師義

城 主:伯耆山名氏…山名師義山名澄之山名氏豊

    尼子氏…不明(南条氏)

    南条氏…南条信正小鴨元清山田越中守

    毛利氏…吉川元春

    中村氏…中村栄忠山田越中守

    池田氏…伊木忠貞

    荒尾氏…荒尾嵩就荒尾宣就荒尾秀就荒尾勝就荒尾甫就荒尾斯就

        荒尾厚就荒尾為就荒尾世就荒尾直就

形 態:山城

遺 構:郭、土塁、虎口、堀切、空堀、横堀、竪堀、畝状竪堀、枡形、石垣、櫓跡、居館跡、井戸跡

現 状:山林、原野、鎮霊神社、境内

種 類:史跡指定なし

地 図:

―年表―

年号 西暦 出来事

延文年間

1356年

1361年

山名師義が築城したとされる。

大永4年

1524年

尼子氏の侵攻により落城したとされる。

大永の五月崩れ

永禄5年

1562年

南条氏が尼子氏から離反。

毛利氏と組し旧領を回復すると管轄下に置く。

天正7年

1579年

羽衣石城南条元続が毛利氏から離反。織田方となる。

天正8年

1580年

毛利氏の武将、吉川元春が入城。

羽衣石城の南条氏・岩倉城の小鴨氏への押さえの拠点として

城を再興したとある。

天正10年

1582年

本能寺の変によって羽柴氏から毛利氏に対し一時的な和睦が行われる。

この時、城は南条氏に返還されたかどうか定かではない。

天正13年

1585年

毛利氏と羽柴氏の和睦により領土が確定。

八橋川以東の東伯耆3郡は南条氏の領土となり、

再び南条元続の持城となった。

慶長5年

1600年

9月15日、関ヶ原の戦いが始まる。

南条元忠は西軍に属したが敗れ、南条家は改易となった。

関ヶ原の戦いでの功績により中村一忠が伯耆国領主となり、

城主として中村栄忠(伊豆守)が城番として任じられた。

慶長14年

1609年

中村家が改易されると江戸幕府の直轄領、天領となった。

慶長19年

1614年

安房国の里見忠義が倉吉3万石を与えられるが、その実は配流であり、

里見忠義が城に入ることはなかったとされる。

元和元年

1615年

一国一城令により廃城。城の設備は徹底的に破却された。

元和3年

1617年

池田光政が因伯32万5千石の領主として因幡国鳥取城に入る。

打吹山麓も鳥取城とその城下町に変わる新城建築の候補地となったが、

『領国の中央なれど、山奥にて国主鎮座の地にあらず』

と、採用されなかった。

池田光政は家臣の伊木忠貞に命じで倉吉の支配を行わせた。

寛永9年

1632年

打吹山麓に陣屋(倉吉陣屋)が置かれ、

明治維新まで倉吉荒尾氏による自分手政治が行われた。

―同好会活動日誌―

しろ☆わた ~城と私と想い街~ vol.02【2013/06/21更新】