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HOME > 伯耆古城図録 > 伯耆古城図録 ~西伯郡南部町篇~ > 旧西伯郡会見町 > 浅井土居敷

◆ 浅井土井敷

【 概 略 】

浅井居館群とも呼ばれる。

 

伯耆志の浅井村の条、修験龍正院の項に以下の記述が見える。

「星川山と号す。大谷村境内に方百間余、高さ五間許の地ありて之を往古の屋敷跡と云い伝え、一礎あり」

 

浅井村は星川郷に所在した十一村のうちの一つで星川氏の本拠地と云われ、当地にはその居館が所在し、星川郷当時からの屋敷跡と伝わる。

谷筋沿いの南西方向には星川氏に関連すると云われる高松根小松砦高姫方形館が所在する。

 

伯耆志の記述の冒頭に「星川山と号す」とあることから、居館群の敷地内に星川氏を開基としたであろう寺院(星川山龍正院)が存在していたことが伺える。

昭和の初め頃まで丘陵北端部付近には寺院が所在したと伝わり、「毘沙門堂」の跡と云われる場所には列石遺構(礎石跡)が一部確認できる。

この毘沙門堂付近の塚からは刀(刃)の破片や高さ1mほどの壷が出土したと云われ、昭和56年4月の調査では井戸1基、墳墓4基、白磁片、青磁片、銅銭が見つかったとある。

 

大東亜戦争(太平洋戦争)敗戦後の昭和20年代前半は未だ慢性的な食糧不足が続いており、用地買収の法律が整うと居館跡の所在した土地は民間へと転売され、塚跡や土塁などの遺構を平削し畑地へ転用してしまったと云う。(昭和23年頃の話と聞く)

【 遠 景 】

東側からの遠望

農道と果樹園

東側からの遠望

伝・毘沙門堂跡

【 見どころ 】

戦後の食料不足を支えた浅井土居敷

大東亜戦争後の食糧不足緩和のため畑地へと改変されました。

毘沙門堂という寺跡があったことが伝承にのみ伝えられます。

方形の郭跡と堀切(空堀)、土塁などが見えますが畑地転用の際の造作物かもしれません。

現在は果樹園になっているため、無断で入ることはできません。

(取材の際は畑を所有される方に許可を取って行いました)

【 概 要 】

名 称浅井土居敷(あさいどいしき)

別 名:浅井居館群(あさいきょかんぐん)

所在地:鳥取県西伯郡南部町浅井

築城年:不明

廃城年:不明

築城主星川氏

城 主星川氏

形 態:丘城

遺 構:郭跡(方形、帯郭)、土塁、横堀、塚跡、礎石跡(毘沙門堂)、井戸跡(消滅)、空堀?

現 状:畑地(果樹)、山林

種 類:史跡指定なし

【参考文献】

・伯耆志

・会見町誌(昭和48年12月 会見町誌編さん委員会)

・会見町誌 続編(平成7年10月 会見町誌編さん企画委員会)

【城娘】

 

【 縄張図 】

浅井居館群略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

不明

不明

巨勢氏の一族で在地の豪族、星川氏の采地で、星川郷当時からの居館と伝わる。

【 写 真 】(訪問日:2014/05/04)

主郭(方形郭跡)

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭(伝・塚跡)

主郭(伝・塚跡)の様子

西側の腰郭

南側の郭跡

南側の郭跡

西側の郭跡の空堀

西側の郭跡の空堀

南側の郭跡の土塁

南側の郭跡の土塁

南側の郭跡の土塁

南側の郭跡の土塁

南側の郭跡の土塁と空堀

南側の郭跡の腰郭

南側の郭跡の腰郭

毘沙門堂跡の礎石?

毘沙門堂跡

毘沙門堂跡

毘沙門堂跡

北側の土塁

北側の土塁

北端の塚跡の土塁

北端の塚跡

北端の塚跡