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HOME > 伯耆古城図録 ~西伯郡篇~ > 法勝寺城 > 同好会活動日誌

◆法勝寺城【訪問日:2013/08/17】 登城難易度⇒★★★★★(※進入及び遺構の確認不可能)

     【再訪問日:2014/02/01】登城難易度⇒★★(普通※時期により進入不能時あり

【 概 略 】

初見は山名系図に1480年(文明12年)、山名元之が領した当城を山名政豊が攻撃したと記述に見える。

このため1480年(文明12年)以前には既に当城が存在していたと推定されている。

別説では1564年(永禄7年)、毛利氏によって築城(或いは改修)とする説もある。

(同年、毛利方に与した部将、三村家親が尼子方の当城を攻め落としたとある)

 

陰徳太平記では村名の由来を尼子方で隠岐人、法性寺某という人物が当地を開拓した事に始まると

記されており、伯耆山名氏の内紛によって荒廃した当地は放逐され当城も廃城となっていたところを

戦略的に重要な拠点と認識した毛利氏によって再び城砦が整えられたとも考えられる。

(1591年(天正19年)までに毛利氏が伯耆に有した五城のうちの一城として保晶寺城と記述が見える)

陰徳太平記ではこの他に三村家親らの戦物語について記述がなされている。

 

伯耆志では法性寺村の条および鴨部村の条に城跡についての記述が見える。

法性寺村の条

「往古法性寺城と号す。鴨部村境内に在り。故に事項彼村の下に記す」

鴨部村の条

「村の北上る事一丁余りの山なり。北方に空堀の形あり。頂の平地方二三間、

 やや下りて西方に方十五間許の地あり。昔の法勝寺城これなり」

 

伯耆民談記では吉川元春の幕下、三村家親が永禄年間に居城したとあり、

三村家親は)武徳日々に盛してついに伯州の押の将となる、と記されている。

宇喜多直家討伐のため備前国へ出張した後の当城に関しては欠文としている。

 

三村家親の出張の後の城主として伝の残る毛利遠江守本紹毛利元就の系図に名前が見えず

架空の人物であるとする説がある。

一説には”法性寺”が訛り”本紹寺”となり”本紹”が語り伝えられ武将の名前にすり替わったとも云われる。

尚、伯耆志では毛利遠江守本紹の忌日を6月7日としている。

 

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)に記載の縄張り図には記載されていないが

現在の法勝寺中学校周辺が二の丸とされ、 南東の伯耆国外構城へ続く道中の丘陵裾にも

郭跡のような平削地、土塁のような土盛、堀跡のような溝跡も見える。

【 法勝寺城イメージキャラクター:毛利 桜華(もうり さくら) 】

【桜華の一言メモ】

春には桜の名所として有名ですね。

法勝寺川沿いに並ぶ桜並木は美しく、

お城から望む景色も風流ですよ。

当時の城主様も桜を愛でておられたのか…

それは謎ですけどね。

 

謎といえば城主様と伝わる毛利本紹様。

毛利家の系図には名前が見えないそうね。

そのため架空の人物とも云われるみたい。

 

「お城はいつ頃、誰が建てたのか?」

これにも諸説あるそうで、この規模のお城で

伝承があやふやなのは少々珍しいかもね。

 

そうそう。

城跡は公園と言うことになっているけど

いつも整備されてるとは思わない方が身の為ね。

え、私のような服装で登れるのか…ですって?

無理に決まってますわ。

 

桜とお城の組み合わせといえば法勝寺城。

尾高城?知らないお城ですね。

illustration:moric

【 遠 景 】

毛利遠江守本紹の墓と云われる石碑

毛利本紹の墓の奥には大堀切

【 概 要 】

名 称法勝寺城(ほっしょうじじょう)

別 名:尾崎城/尾崎寺城(おざきじょう/おざきでらじょう)、本紹寺城(ほんしょうじじょう)、

    法性寺城/法正寺城/保晶寺城(ほうしょうじじょう)

所在地:鳥取県西伯郡南部町法勝寺

築城年:1480年(文明12年)以前…山名政豊による法勝寺城への攻撃が記述に見える。

    伯耆山名氏衰退期…尼子方で隠岐人、法性寺某によって当地(法性寺村)が開拓されたとある。

    1564年(永禄7年)…毛利氏による築城、或いは改修が行われたと云われる。

築城主伯耆山名氏尼子氏毛利氏(いずれも武将名は不詳)

城 主:伯耆山名氏…不明(山名元之配下の城将)

    尼子氏…法性寺某?、吉田源四郎

    毛利氏…三村家親毛利本紹

文 献:伯耆志、伯耆民談記、伯耆誌、山名系図、萩藩閥閲録、隠徳太平記、米子史談、西伯町誌、

    戦国動乱期の伯耆、因伯叢書第4巻「伯耆誌」

形 態:山城

遺 構:郭跡、土塁、堀切、横堀、竪堀、空堀、切岸、櫓台、礎石

現 状:山林、公園、水田、畑地、法勝寺中学校

種 類:南部町指定文化財(平成16年10月1日指定)

【縄張り】

法勝寺城略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

文明12年

1480年

但馬山名氏の山名政豊が伯耆守護、山名元之の領する当城を攻撃。

(山名系図、山名政豊感状、萩藩閥閲録)

このことから山名氏の内紛以前に当城が所在したと推測され、

山名氏の内紛によって当地は荒廃、廃城されたと考えられる。

不明

不明

尼子方で隠岐人、法性寺某によって当地が開拓されたとあり、

法性寺村と名付けられた所以とされる。(陰徳太平記)

これ以降は当地を尼子方の勢力が領有したと考えられる。

永禄7年

1564年

毛利氏に与した三村家親が当城へ侵攻を開始。

尼子方は援軍として伯耆国八橋城の城主、吉田源四郎が来援するも

三村家親によって撃ち破られると当城は落城し毛利方の支配へと

移ったと云われる。

この頃、毛利氏によって築城、或いは改修が行われたとも云われる。

永禄8年

1565年

尼子方の吉田源四郎平野又右衛門谷土孫平衛が当城へ攻撃を

仕掛けるが三村家親は打って出ようとしなかったため、

尼子方によって城下への放火が行われたとされる。(陰徳太平記)

永禄8年

永禄9年

1565年

1566年

 

吉川元春の幕下、三村家親が居城したとあり、三村家親

宇喜多直家討伐に備前国へ赴いた後の当城に関しては不明とある。

(伯耆民談記)

尚、三村家親は1566年(永禄9年)2月5日に美作国の興善寺で

暗殺(射殺)されている。

元亀年間

1570年頃

三村家親の備前国への出張に際して後任の城主として任命されたのが

毛利本紹という人物であったと伝えられる。

毛利本紹は尼子再興軍を率いた山中幸盛に攻められ自刃したとある。

慶長6年

慶長7年

1601年

1602年

中村一忠が伯耆国の領主となり伯耆国へ転封された頃、

或いは伯耆国米子城が完成した頃に廃城されたと云われる。

【 写 真 】

主郭への登城道は北東と南からの2ルート存在

こちらは北の大堀切からのルート

当城跡一番の見所「北の大堀切」

北の大堀切の頂部

北の大堀切の北側に郭跡群

櫓台など監視施設を置いたと考えられる

北側郭跡群の腰郭

北側郭跡群の郭跡

北側郭跡群の横堀と土塁

北の大堀切からは空堀へと繋がる(主郭西側)

※現在は公園整備のために舗装されている

空堀西側の土塁

空堀を南に進むと土塁と虎口

先ほどの土塁と虎口の先には横掘

北の大堀切から主郭への登城道(縄張図東側)

登城道途中には虎口(或いは木戸?)

主郭下の北一ノ郭(腰郭)

主郭下北東の北二ノ郭(腰郭)

主郭下北東の北二ノ郭(腰郭)

主郭下北東の北二ノ郭(腰郭)

主郭下の東一ノ郭(腰郭)

主郭下の東一ノ郭(主郭から)

主郭下の北二ノ郭の土塁

主郭下の北一ノ郭の土塁

主郭東側の登城道

主郭の様子

主郭(北側)の様子

主郭南側には土塁

主郭南側には土塁

主郭西側の切岸

主郭からの城下町の眺め(北東側)

主郭からの城下町の眺め(北側)

主郭からの二の丸の眺め(北西側)

主郭から北一ノ郭

南東側には空堀を利用した登城道

南東側の空堀からは主郭南の登城道へ

主郭南側の登城道

主郭南側の登城道からは主郭の礎石が見える

主郭の礎石

北の大堀切を西に進むと二の丸

※但し場所の特定はされていない

二の丸付近の櫓台と思われる郭跡

櫓台への登城道

櫓台の腰郭

櫓台には英霊塔

櫓台からの眺め(北西側)

現在の法勝寺中学校の付近が

二の丸であったと伝わる

南東の伯耆国外構城へと続く道中にも

遺構らしき造作物が見られる

郭跡?

土橋?

空堀?

夏の毛利本紹の墓の様子

夏の城山公園の様子

(北の大堀切)

夏の城山公園の様子

(東側の登城道)

夏の城山公園の様子

(道路まで雑草が侵攻…)

【同好会活動日誌】

法勝寺城はかつての鳥取県西伯郡西伯町内に所在した城跡の中では最大の

規模を誇る城跡よ。

現在は西伯町と会見町が合併して南部町になっているけど、旧会見町の小松城

並べて南部町内の古城跡ツートップと言っても過言じゃないかもね。

遺構をそれなりに残したまま公園として整備されているみたいだね。

南部町内では桜の名所のひとつで春頃にはたくさんの観光客で賑わうそうだよ!

時期を誤ると町指定の文化財なのに…しかも公園のはずなのに…

一切進入ができない場合もあるので城跡を楽して見て回ろうと思ったら春先か

役場の人に草を刈る時期を問い合わせてから向かったほうが無難なお城跡ね。

確かに初夏の頃はひどい目にあったよ。。。

「城山公園」と書かれていたからいつでも綺麗にされていると思っちゃうよね。

城跡の規模、遺構の残存状態など現地の状態に関しては申し分ないと思うけど、

実は歴史背景について言うとちょっと怪しいお城でもあったり。

 

というのも、名前が出てくる資料のほとんどが「陰徳太平記」などの軍記物。

基本的に軍記物は創作の部分も多いので史料として認めにくいみたいね。

ま、まあ、城跡と桜が一緒に見える数少ない名所のひとつなので、

細かいことは置いといて現地を楽しもうよ。