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HOME > 伯耆古城図録 > 伯耆古城図録 ~西伯郡南部町篇~ > 旧西伯郡西伯町 > 法勝寺城

◆ 法勝寺城

【 概 略 】

初見は山名系図に1480年(文明12年)、山名元之が領した当城を山名政豊が攻撃したことに記述が見える。

この記述から1480年(文明12年)以前には当城が存在していた可能性を伺わせる。

 

別説に1564年(永禄7年)、毛利氏による築城とする説もあるが、この説を採る場合は1480年(文明12年)、伯耆山名氏の内紛によって当城が徹底的な破壊を受け廃城されていたと推定する。

 

陰徳太平記では村名の由来を尼子方の隠岐人、法性寺某という人物が当地を開拓した事に始まると記されている。

かつては広大な荘園などを有した豊かな地域であったが文明年間に勃発した伯耆山名氏の内紛によって荒廃しており、一時、歴史上から姿を消す期間があることから当城及び周辺地域は完全に放棄された事が推測される。

この頃、隠岐より法性寺某が入植し、荒れた土地を開墾し法勝寺村を開いたことから再び活気を取り戻したことが考えられる。

 

1564年(永禄7年)、尼子方の領有であったが毛利方の部将、三村家親に攻められ落城。毛利方の領有になると城砦の改修が行われている。(この改修が毛利氏による築城とする説となる)

 

1591年(天正19年)までに毛利氏が伯耆国内に有した五城のうちの一城(保晶寺城)として記述が見え、特に重要視された城砦であることが伺える。

陰徳太平記では伯耆国不動ヶ嶽の戦いから当城、当城から伯耆国大江城の攻略について、三村家親らを主軸にした記述が見える。

 

伯耆志では法性寺村の条および鴨部村の条に城跡についての記述が見える。

 

法性寺村の条

「往古法性寺城と号す。鴨部村境内に在り。故に事項彼村の下に記す」

 

鴨部村の条

「村の北上る事一丁余りの山なり。北方に空堀の形あり。頂の平地方二三間、やや下りて西方に方十五間許の地あり。昔の法勝寺城これなり」

 

伯耆民談記では吉川元春の幕下、三村家親が永禄年間に居城したとあり「(三村家親は)武徳日々に盛してついに伯州の押の将となる」と記されている。

宇喜多直家討伐のため備前国へ出張した後の当城に関しては欠文としている。

 

三村家親出張後の城主として伝の残る毛利本紹毛利元就の系図に名が見えず架空の人物とされるが伯耆志では忌日を6月7日としている。

一説には”法性寺”が訛り”本紹寺”となり”本紹”が語り伝えられ武将の名前にすり替わったとも推測される。

 

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)に記載の縄張り図には記載されていないが現在の法勝寺中学校周辺が二の丸とされ、 南東の伯耆国外構城へ続く道中の丘陵裾にも郭跡のような平削地、土塁のような土盛、堀跡のような溝跡も見える。

【 遠 景 】

毛利本紹の墓と云われる石碑

毛利本紹の墓の奥には大堀切

(推定)二の丸

二の丸付近の櫓台

【 見どころ 】

大堀切

毛利本紹の墓と伝わる石碑の後方に見える大堀切。

堀切内を登り西進すると切通状の舗装道路に出ますが、恐らく主郭を囲むように空堀になっていたことが推定されます。

公園化されているので常時整備されていると思いがちですが、季節によっては藪化し全く遺構が見えないこともあります。法勝寺土手の桜の季節など整備が行われているときを狙っての見学をお勧めします。

【 概 要 】

名 称法勝寺城(ほっしょうじじょう)

別 名:尾崎城/尾崎寺城(おざきじょう/おざきでらじょう)、本紹寺城(ほんしょうじじょう)、法性寺城/法正寺城/保晶寺城(ほうしょうじじょう)

所在地:鳥取県西伯郡南部町法勝寺

築城年:1480年(文明12年)以前…山名政豊による当城への攻撃。

    伯耆山名氏衰退期…法性寺某による当地(法性寺村)開拓時。

    1564年(永禄7年)…毛利氏による改修。

廃城年:1602年(慶長7年)頃? ※1480年(文明12年)頃に一度廃城の可能性あり。

築城主:伯耆山名氏、尼子氏、毛利氏(いずれも武将名は不詳)

城 主:(伯耆山名氏)山名元之配下の城将(尼子氏)不明(毛利氏)三村家親毛利遠江守本紹

形 態:山城

遺 構:郭跡、土塁、堀切、横堀、竪堀、空堀、切岸、櫓台、礎石

現 状:山林、公園、水田、畑地、法勝寺中学校

種 類:南部町指定文化財(平成16年10月1日指定)

【参考文献】

・伯耆志・伯耆民諺記・伯耆民談記・山名系図・萩藩閥閲録

・隠徳太平記・米子史談・西伯町誌・因伯叢書第4巻「伯耆誌」

・戦国動乱期の伯耆-その戦乱の跡をたどる-(平成19年11月:米子市立山陰歴史館)

【城娘】

【縄張図】

法勝寺城略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

文明12年

1480年

不明

不明

永禄7年

1564年

永禄8年

1565年

永禄8年

永禄9年

1565年

1566年

元亀年間

1570年頃

慶長6年

慶長7年

1601年

1602年

中村一忠が伯耆国の領主となり伯耆国へ転封された頃、或いは伯耆国米子城が完成した頃に廃城されたと云われる。

【 写 真 】(訪問日:2013/08/17、2014/02/01

主郭北側の大堀切

北大堀切の頂部

北大堀切から北側の郭跡群

北側郭跡群の腰郭

北側郭跡群の郭跡

北側郭跡群の横堀と土塁

北大堀切から西側空堀

空堀西側の土塁

空堀を南に進むと土塁と虎口

土塁と虎口の先には横掘

主郭東側の帯郭帯

主郭東側帯郭帯の虎口(或いは木戸)

主郭下の北一ノ郭(腰郭)

主郭下北東の北二ノ郭(腰郭)

主郭下北東の北二ノ郭(腰郭)

主郭下北東の北二ノ郭(腰郭)

主郭下の東一ノ郭(腰郭)

主郭下の東一ノ郭(主郭から)

主郭下の北二ノ郭の土塁

主郭下の北一ノ郭の土塁

主郭東側の帯郭帯(登城道)

主郭の様子

主郭(北側)の様子

主郭南側には土塁

主郭南側には土塁

主郭西側の切岸

主郭からの城下の眺め(北東側)

主郭からの城下町の眺め(北側)

主郭からの二の丸の眺め(北西側)

主郭から北一ノ郭

南東側の空堀を利用した登城道

南東側の空堀から主郭南の登城道

主郭南側の登城道

主郭南側の礎石

主郭の礎石

櫓台への登城道

櫓台の腰郭

櫓台には英霊塔

櫓台からの眺め(北西側)

南東側にも遺構らしき痕跡

郭跡?

土橋?

空堀?

夏の毛利本紹の墓の様子

夏の城山公園の様子(北大堀切)

夏の城山公園の様子(東側の登城道)

夏の城山公園の様子