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HOME > 伯耆古城図録 > 伯耆古城図録 ~西伯郡大山町篇~ > 旧西伯郡中山町 > 石井垣城

◆ 石井垣城

【 概 略 】

当城は汗入郡と八橋郡の境界に所在していたと云われる。

伯耆国では珍しい複郭式の構成を持つ大規模な城だが歴史については不明な点が多い。

 

伯耆民談記では伯耆の糟屋氏の項に以下の記述が見える。

「相州糟屋氏の族で当国の守護代、船上山北二里、中山城に拠る」

 

また、岩井垣城の詳細については下記の記述が見える。

「箆津豊後守敦忠数代相伝の家城なり」

 

異本伯耆巻(名和氏紀事、金勝寺本太平記にも同様の記述)では、中山城主の糟屋氏の記述が見える。

「(略)当国の糟屋弥二郎入道元覚が中山城に楯籠もりしを(略)」

(金勝寺本太平記では糟屋弥二郎入道元覚を別に明翁と注記がある)

 

諸文献や古記録の記述に見える「中山城」は当城か伯耆国箆津城槙城)が推定されている。

 

1333年(元弘3年/正慶2年)の船上山の戦いで幕府方の追討軍に勝利した名和長年の逆襲により、伯耆国小波城に続いて当城も攻められ炎上し落城したとされる(幕府方の糟屋氏は滅亡と云われる)

 

当城はかつての石井垣村内に所在したことから一般的には石井垣城と記される。(伯耆民談記)

同じ伯耆民談記には「岩井垣城」との記述も見える。

 

因伯古城跡図志では「潮音寺村古城跡」と記されることから別名に「潮音寺城」とも云われる。

因伯古城跡図志 伯耆国 潮音寺村古城跡

「潮音寺村古城跡、箆津豊後守の居城と申伝え、高十五間にして山にて無之野続也、草木有。後通り二丈位の切崖下は甲川有」

 

城の周囲に張り巡らされた堀に関しては

「堀長三十間、全幅二間位」「同九十間位」「幅二間位」

上記の通り三重の堀があったことが記述され、その西の外側には更に堀跡を残した田地と橋の跡があると記されている。

「此所橋跡有。以前堀の形、当時田地也」

城の大手は「表酉」とされることから西側に虎口があり、木橋が架かっていたと推測されている。

 

現在は春日神社を含む範囲を城域としているが、古城跡図志の記録者は春日神社(春日大名神)を城域に含んでおらず、当時は主郭(本丸及び二ノ丸)周辺のみを城域としていたことが伺える。(西側の墓地区画とされる郭跡も城跡に含めていない)

 

1862年(文久2年)の八橋郡赤坂村諸事書上帳には以下の記述が見える。

「村より八丁南、字城ノ内と唱え、箆津豊後守様古城之跡御座候。堀数々墓所五輪等は御座候へ共(略)」

 

1900年(明治33年)の村社春日神社社格昇進願では当城の事を「養中山下リ松ノ城」としている。

 

城に関する字名には「城ノ内」「上城ノ内」「下城ノ内」「天馬河原」「御墓ノ峰」が見られる。

 

当城の城主であった糟屋氏滅亡後の当城の動向については諸説存在する。

名和長年に与した赤坂幸清が当城に入るが、後にが京都大宮で討死。その後は在地土豪の箆津敦忠が入城し、以降は居城とする説(時期としては赤坂幸清が京都へ発つ際に後任として任された可能性もある)

赤坂幸清は入城せず糟屋氏滅亡直後から箆津敦忠を城主とする説

 

箆津敦忠が奈良から春日大明神を勧請し建立したとされる春日神社だが、名和長年が勧請し建立したとする説も見える。

 

一時期、墓地区画(字御墓ノ峰)に「ふるさとフォーラムなかやま」の建築が進められそうになるが地元有志の陳情、石井垣城跡保存運動によって施設建物は城域外の現在の場所へと計画が変更されたため、墓地区画は大山町の町有地となり、史跡指定もされていない。

 

城跡の所在地を「鳥取県西伯郡大山町石井垣」とする記述も散見するが「石井垣」に城域は重ならない。

「鳥取県西伯郡大山町赤坂」「鳥取県西伯郡大山町潮音寺」が当城の城域となる。

※船上山の戦いに出てくる伯耆国赤坂城も当城の可能性がある。

【 遠 景 】

案内板

東側の甲川(きのえがわ)

春日神社(狛犬は鹿)

伝・箆津豊後守の墓

【 見どころ 】

金龍山退休寺の勅旨門

当城は広大な城域を有しますが、その殆どが未整備で用意に探索するのは困難です。

春日神社の周辺から空堀など見ることが出来ますが、当城より南(車でも暫くかかりますが…)に所在する箆津敦忠による建立と伝わる金龍山退休寺が見どころです。

【 概 要 】

名 称石井垣城(いわいがきじょう)

別 名:岩井垣城(いわいがきじょう)、中山城(なかやまじょう)、潮音寺城(ちょうおんじじょう)、養中山下リ松ノ城(なかやまくだりまつのしろ)、赤坂城(あかさかじょう)

所在地:鳥取県西伯郡大山町赤坂、鳥取県西伯郡大山町潮音寺

築城年:不明(船上山の戦い以前の築城)

廃城年:不明

築城主:不明

城 主:(六波羅探題)糟屋重行(名和氏)赤坂幸清箆津敦忠(伯耆山名氏)箆津敦忠箆津信清

形 態:複郭式平山城

遺 構:郭跡、腰郭、土塁、虎口、門跡、空堀、堀切、石塁、切岸、土橋、馬出、櫓台、城主墓所

現 状:山林、春日神社、果樹畑

種 類:史跡指定なし(字御墓の峰は大山町の町有地)

【参考文献】

・伯耆民談記・異本伯耆巻・金勝寺本「太平記」・名和氏紀事

・大館常興書札抄・汗入郡万覚帳・因伯古城跡図志(1818年 文政元年)

・赤坂神社明細帳・村社春日神社社格昇進願

・八橋郡村々諸事書上帳(岩井垣村諸事書上帳、赤坂村諸事書上帳)

・中山町史

・新修中山町誌 上巻(平成21年3月 中山町誌編集委員会)

・新修中山町誌 下巻(平成21年3月 中山町誌編集委員会)

・大山町誌(昭和55年10月 大山町誌編さん委員会)

・名和町誌

・船上山史

・赤碕町誌(昭和49年11月 赤碕町誌編纂委員会)

・新修米子市史

・中世城郭事典

・日本歴史地名大系第32巻 鳥取県の地名(1992年10月 平凡社)

【城娘】

【 縄張図 】

石井垣城略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 縄張図 】

石井垣城略測図(主要遺構名加筆)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

元弘3年

1333年

元弘3年

延元元年

(建武3年)

1333年

1336年

元弘3年~

1333年~

赤坂幸清が京都へ向かった前後、在地の土豪であった箆津敦忠が入城し、以後は箆津氏累々の居城と伝わる。

また、赤坂幸清は入城せず糟屋氏滅亡直後から箆津敦忠が城主とする説も伝わる。

【 写 真 】(訪問日:2014/02/22、2014/09/14、2014/09/21) 

本丸と二ノ丸を隔てる堀切

ニノ丸の様子(一段低い場所)

本丸と土塁

本丸の様子

本丸の虎口に門の礎石があったと伝わる

本丸付近の郭跡

本丸付近の郭跡

本丸付近の郭跡

二ノ丸付近の空堀

二ノ丸(空堀から)

天場河原へ続く空堀

天場河原からの虎口?

天場河原は郭跡とされる

昔は天場河原近くを甲川が流れたとある

春日神社の鳥居

遥拝所

春日神社から鷺池(さぎいけ)への道

虫送り

鷺池の祠

鷺池

春日神社南西の郭跡(字潮音寺)

春日神社南西の郭跡

春日神社南西の三条の空堀(北)と土塁

春日神社南西の三条の空堀(中)

春日神社南西の三条の空堀(南)と土塁

大手(表酉)虎口から空堀(殿さん道)

墓地区画(西側郭跡)北側の郭跡の空堀

墓地区画北側の郭跡の空堀

墓地区画の北端の郭跡

墓地区画の北端の郭跡の西側腰郭

墓地区画の北端の郭跡の東側腰郭

墓地区画の北端郭跡の土塁(北側)

墓地区画の北端郭跡の土塁と空堀

墓地区画の北端郭跡の土塁と空堀

墓地区画の北端郭跡の土塁と空堀

墓地区画の北端郭跡の東側の土塁と空堀

墓地区画の北端郭跡の東側の土塁と空堀

墓地区画の北端郭跡の東側の土塁と空堀

墓地区画の北端郭跡の東側の土塁と空堀

箆津豊後守の墓を囲む空堀

箆津豊後守の墓から鷺池

鷺池(西側)

墓地区画の土塁

五輪塔(平成26年9月21日現在修復)

墓地区画の様子

墓地区画(西の郭跡)

金龍山退休寺の塀は後小松天皇との繋がりを物語るとされる