トップページへ
お問い合わせフォーム

HOME > 伯耆古城図録 ~西伯郡篇~ > 岸本要害

◆岸本要害

【 概 略 】

西に日野往来を望む低丘陵の台地に所在する。

主郭には播磨国三木城の落城で自刃した別所長治を祀ったと云われる祠が鎮座する。

伯耆国尾高城から日野郡を経由して山陽方面へ向かう際は中継する拠点の一つとされ、交通の要衝であったと考えられる。

 

築城については諸説あり、年号、築城主、城主などについては伝説などを含めても諸説が存在する。

 

・鎌倉時代~南北朝時代にかけ、在地豪族の巨勢氏によって城郭の礎となる居館が建てられていた説。

・1526年(大永6年)に別所就治尼子詮久を追ってきた時、瑞応寺の建立と併せて城郭を造った説。

・天文年間(1532年~1555年)、尼子詮久を追って伯耆に入った別所就治が対尼子戦の要衝として城郭を整備した説。

・1580年(天正8年)、播磨国三木城が落城した後、落ち延びた別所氏の一族が要害に砦を建造した説。こちらの説では別所長治の遺児、竹松丸を迎えるための居館を建造とする説としている。

 

播磨国三木城の出城とする説では尾高城の支城で毛利氏に与した別所氏一族が拠った城砦とも云われ、鳥取藩文政11年古城址地図には城砦に関しての記述が見える。

 

伯耆志には以下の記述が見えるが詳細は不明。

伯耆志 岸本村の条 城跡の項

「村の東五丁許り稍高き地にて其上は平原なり何人の古蹟なるや」

 

1564年(永禄7年)の毛利元就吉川元春小早川隆景連署書状では杉原盛重宮景盛が伯耆国河岡城の救援のため溝口まで進軍するも救援に手間取っていたことから当要害に尼子方の将兵が拠って妨害したことが推測される。

また、北側の伯耆国石州府城との連携も推測できる。

【 遠 景 】

県道326号沿いに案内板

案内板横に石碑

案内板と石碑の間に道

案内板横からは空堀に繋がる

【 概 要 】

名 称岸本要害(きしもとようがい)

別 名:岸本城(きしもとじょう)、岸本砦(きしもととりで)、岸本の城跡(きしもとのしろあと)

所在地:鳥取県西伯郡伯耆町岸本

築城年:不明(真偽不明ながら諸説存在するので以下に記述)

    ○鎌倉~南北朝時代…在地豪族の巨勢氏によって城館が建造されたとする。

    ○1526年(大永6年)…別所就治によって瑞応寺の建立と併せて城郭が建造されたとする。

    ○天文年間(1532年~1555年)…尼子詮久を追って伯耆に入った別所就治が建造したとする。

    ○1580年(天正8年)…播磨国三木城から落ち延びた別所氏一族によって築城されたとする。

築城主:不明(巨勢氏あるいは別所就治別所氏

城 主別所就治別所与三左衛門尉

形 態:丘城

遺 構:郭跡、空堀、堀切、切岸、土塁、土橋、虎口(南側)、平入虎口(東側)、礎石、馬出?

現 状:山林、畑地、果樹園

種 類:史跡指定なし

【参考文献】

・伯耆志・鳥取藩文政11年古城址地図「別所長治調書」・瑞応寺伝記

・岸本町誌(昭和58年3月:岸本町誌編さん委員会)

・尾高の里<三>(昭和56年6月:野口徳正)

・米子市石州府遺跡群発掘調査報告書Ⅰ国営大山山麓開拓建設事業に伴う埋蔵文化財試掘調査(昭和58年3月:米子市教育委員会)

・米子市石州府遺跡群発掘調査報告書Ⅱ国営大山山麓開拓建設事業・県道米子環状線道路改良工事に伴う埋蔵文化財試掘調査(昭和59年3月:米子市教育委員会)

 

【 縄張図 】

岸本要害略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

不明

不明

大永6年

1526年

天文元年

1532年

天文5年

1536年

天文6年

1537年

天文7年

1538年

天文22年

1553年

天正6年

1578年

天正8年

1580年

1月17日、羽柴秀吉の兵糧攻め「三木の干殺し」により播磨国三木城は落城必至となり、城内の将兵・領民の安全を保証することを条件に城主の別所長治は自刃し播磨国三木城は開城した。

(この策に気を良くした秀吉は後に鳥取城でも同じ策を採ったとされる)

 

別所長治の家族と一族が共に自刃。妻子一族十名が果てた後、遺体を焼き自刃したと云われる。

別所長治の末子、竹松丸(後の別所長兵衛)だけは野脇新三郎別所左近忠治らによって城を脱することができたとされ、脱出後は当城で野脇新三郎らによって養育されたとある。

 

当城の城主とされる別所与三左衛門尉の他、清原の伯耆国高平城にも別所氏の一族が在城したと云われることから、播磨国三木城から生き残った別所氏一族や家臣が落ち延びてきたと思われる。

 

伯耆国尾高城の支城の一つであったとされるが、播磨国三木城の出城であったともされ、別所氏一族がこの地に強固な基盤を築いていた事は地元に地名が残る事、瑞応寺に残る伝記からも推測することができる。

【 写 真 】【訪問日:2013/11/08】

案内板横からの登城

南側の谷筋から主郭東の堀切へ

主郭東の堀切(南側)

主郭東の堀切(北側)

主郭東の堀切(北側)

主郭東の堀切中央の土橋

主郭東の土塁端には石灯篭

主郭東の土塁端には石灯篭(破損)

正面虎口の土塁端の石灯篭

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭の祠

別所長治を祀った祠とも

主郭に見える礎石

主郭南側の虎口と土塁

主郭南側の虎口

主郭南側の虎口の土塁

主郭南側の虎口

主郭南東隅の「コの字」土塁

主郭南東隅の「コの字」土塁

主郭東側の土塁

主郭北東隅の「コの字」土塁

主郭北東隅の「コの字」土塁

主郭北側の土塁

主郭東側の二ノ丸東堀切

迂回して東側からのルート

迂回して東側からのルート

東側の多くは藪化が激しい

道も途中から藪化

藪を進むと東の二ノ丸へ

二ノ丸への道

二ノ丸の礎石

縄張りより北の方形郭跡

縄張りより北の方形郭跡

縄張りより北の方形郭跡

縄張りより北の方形郭跡

縄張りより北の方形郭跡の土塁