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HOME > 伯耆古城図録 ~西伯郡篇~ >岸本要害> 同好会活動日誌

◆岸本要害【訪問日:2013/11/08】 登城難易度⇒★★★★☆(修羅)

【 概 略 】

伯耆志には「村の東五丁許り稍高き地にて其上は平原なり何人の古蹟なるや」と記される。

 

築城については諸説あり、

・鎌倉時代、在地豪族の巨勢氏によって城郭の礎となる居館が建てられていた説。

別所就治が瑞応寺の建立と併せて建造した説。

・天文年間、尼子詮久を追って伯耆に入った別所就治が対尼子戦の要衝として要害に城郭を整備した説。

・播磨国三木城が落城した後、落ち延びた別所氏の一族が要害に砦を建造した説。

年号、築城主、城主などについては伝説などを含めても諸説が存在する。

 

播磨国三木城の出城であるという説もあるが、伯耆国尾高城の支城で毛利氏に与した別所氏一族が

拠った城砦とも云われ、鳥取藩文政11年古城址地図には城砦に関しての記述が見える。

【 遠 景 】

県道326号沿いの案内板と石碑

主郭に鎮座する別所長治を祀った祠(唐戸)

【 概 要 】

名 称岸本要害(きしもとようがい)

別 名:岸本城(きしもとじょう)、岸本砦(きしもととりで)、岸本の城跡(きしもとのしろあと)

所在地:鳥取県西伯郡伯耆町岸本

築城年:不明(真偽不明ながら諸説存在するので以下に記述)

    ○鎌倉~南北朝時代…在地豪族の巨勢氏によって城館が建造されたとする。

    ○1526年(大永6年)…別所就治によって瑞応寺の建立と併せて城郭が建造されたとする。

    ○天文年間(1532年~1555年)…尼子詮久を追って伯耆に入った別所就治が建造したとする。

    ○1580年(天正8年)…播磨国三木城から落ち延びた別所氏一族によって築城されたとする。

築城主:不明(巨勢氏あるいは別所就治別所氏

城 主別所就治別所与三左衛門尉

文 献:伯耆志、鳥取藩文政11年古城址地図「別所長治調書」、岸本町誌、瑞応寺伝記、

    尾高の里<三>(野口徳正 著)昭和56年6月

形 態:丘城

遺 構:郭跡、空堀、堀切、切岸、土塁、土橋、虎口(南側)、平入虎口(東側)、礎石、馬出?

現 状:山林、畑地、果樹園

種 類:史跡指定なし

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

鎌倉時代

南北朝時代

不明

在地豪族の巨勢氏によって岸本の地に城館が建造されたと云われる。

大永6年

1526年

天文年間、播磨国三木城主、別所就治が尼子氏を追って伯耆に入り、

瑞応寺の建立と併せて城郭を築城したとする。(瑞応寺伝記)

御身仏十一面観音像は従兄の別所忠治が三木より運んだと云われる。

天文年間

1532年

1555年

播磨国三木城の城主、別所就治が尼子氏を追って伯耆に入り、

岸本の地に要害を築城したと伝わる。

 

1532年(天文元年)、別所就治が吉定へ来たとされる。

1536年(天文5年)12月17日には尼子詮久本願寺光教が好を通じ、

本願寺光教が尼子氏の播磨国侵攻に組し協力したともされる。

1537年(天文6年)12月14日、尼子氏が播磨国三木城を攻撃。

1538年(天文7年)11月、尼子氏が播磨国三木城を攻撃。

二度目の播磨国三木城攻めでは尼子詮久が播磨国へ出陣したとあるが

いずれも尼子詮久は播磨国三木城を攻略できなかったとされる。

1553年(天文22年)、尼子晴久が播磨国三木城を攻めるも

攻略できなかったと伝わる。

天正6年

1578年

4月より播磨国三木城を主戦場に三木合戦(織田軍×別所軍)が

始まる。

天正8年

1580年

1月17日、羽柴秀吉の兵糧攻め「三木の干殺し」により播磨国三木城

は落城必至となり、城内の将兵・領民の安全を保証することを条件に

城主の別所長治は自刃し播磨国三木城は開城した。

(この策に気を良くした秀吉は後に鳥取城でも同じ策を採っている)

 

別所長治の家族や一族も共に自刃したとされるが、

(妻子一族十名が果てた後、遺体を焼き自刃したと云われる)

別所長治の末子、竹松丸(後の別所長兵衛)だけは野脇新三郎

別所左近忠治らによって極秘裏に城を脱することができた。

脱出後は当城で野脇新三郎らによって養育されたとある。

 

当城の城主とされる別所与三左衛門尉の他、清原の伯耆国高平城にも

別所氏の一族が在城したと云われることから、播磨国三木城から

生き残った別所氏一族や家臣が落ち延びてきたと思われる。

 

伯耆国尾高城の支城の一つであったとされるが、播磨国三木城

出城であったともされ、別所氏一族がこの地に強固な基盤を

築いていた事は地元に地名が残る事、瑞応寺に残る伝記からも

推測することができる。

【 写 真 】

東側に登城道があるものの

現状ではこの道からの登城は難しい

薮化しているが西の石碑横から空堀伝いに

登城する方が多少は楽

東側からは蔓草で足元が確認できない上に

鳥取藩文政11年古城址地図で”滝”と記される

沢もあるため写真の状態での登城は大変危険

元々はこのあたりも城域であったと云われるが

果樹園等の改変を受けている

東側の登城道を進むと左右(南北)に郭跡

西側の郭跡は一段高く礎石も見える

西側の郭跡の礎石

東側の登城道を更に進むと

鳥取藩文政11年古城址地図に図示される

”三条の空堀”のうちの一条

空堀は三条と記されるが

現在は一条しか見えず堀切のようにも見える

主郭へと続く土橋

土橋を進むと平入虎口と両脇の土塁上に石塔

北側の石塔(元々は灯篭)

南側の石塔(元々は灯篭)

主郭の様子

北、西、南は比高20mほどの切岸になっている

鳥取藩文政11年古城址地図では北と南に空堀

さらに北の滝と沢をもって天然の堀としていた

主郭北東側の土塁

主郭西側には礎石残骸が多数見られる

主郭の西側の礎石残骸

主郭を囲む東側の「コの字」の土塁

土塁の比高は低いが元々の高低差が

20m程あるため基本的な防御力は高い

主郭南側には虎口のような遺構

南側の虎口付近の土塁と郭跡

主郭北側は三条の空堀や天然の堀で固め

元々の防御力も高かったと想定できる

南側虎口付近の郭跡は主郭南側の防衛力強化

南東部の堀切に対して矢倉や

櫓といった防衛施設を配した郭跡とも考えられる

主郭南側虎口付近の土塁

主郭北側の土塁

主郭北側の「コの字」土塁

ここからはおまけで城跡より北東に

郭跡と土塁・石積みの残骸が残る場所が存在する

形状が要害の縄張りと似ていて

最初はここが要害跡かと思ったが

地元の方に伺うとハズレとの事

要害に関連する施設だと面白いかも?

何かの石積みの残骸(丸石)

何かの石積みの残骸

何かの石積みの残骸

何かの石積みの残骸(角石)

正面に土塁

土塁には切れ目があり平入虎口のよう

【同好会活動日誌】

播磨国三木城に拠った別所一族と縁のある城跡ね。

 

築城されたとする時期には諸説あって…

1、鎌倉時代~南北朝時代に巨勢氏が居館を設ける。

2、1526年(大永6年)に別所就治尼子詮久を追ってきた際、

  瑞応寺の建立と同時に城郭を造った。

3、天文年間に尼子詮久を追って伯耆に入った別所就治が対尼子戦の要衝として

  要害に城郭を整備。

4、1580年(天正8年)に別所長治の遺児、竹松丸を迎えるため居館を造った。

 

一般的にはこの四説が見えるけど、築城とあってもそれぞれの年代で増改築を

繰り返した可能性もあるので、どの説が真偽というのは断定できないかな?

 

実際のところ、地元にも正確に伝える文献は残っていないそうで、

お寺に伝わる伝記や別所氏の伝などを参考にする他ないみたいね。

播磨国三木城に拠った別所氏一族とは深い縁があるみたいだね。

これは伝承だけど播磨国三木城(別所氏)の伯耆の出城が岸本要害だったと

云われるそうよ。

主郭に鎮座していた祠は播磨国三木城で秀吉との戦(三木の干殺し)に敗れ、

家臣と領民の安全と引き換えに自刃した別所長治を祀った祠と云われているわ。

 

当城の城主は別所与三左衛門尉、清原の伯耆国高平城別所小三郎長治?)の

居城と伝えられ、地名に「口別所」、河川名に「別所川」と残っているあたり

岸本の地で別所氏一族がそれなりの勢力を築いていた事が推測できるわね。

 

「三木の干殺し」で落城した播磨国三木城から別所長治の遺児、

竹松丸を抱いて脱出した野脇新三郎も岸本村出身の武将で、この件も別所氏と

岸本町との縁を深くしているようね。