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HOME > 伯耆古城図録 ~西伯郡篇~ > 山田氏館 > 同好会活動日誌

◆山田氏館【訪問日:2013/06/16】 登城難易度⇒★☆☆☆☆(易)

【 概 略 】

伯耆国小應城跡とされる小鷹神社から小川(川堀)を挟んだ北側に所在する居館跡。

伯耆国小鷹城の城主で毛利氏、吉川氏に仕えた伯耆山田氏の山田重直山田盛直親子の居館跡と地元には伝わる。

 

居館跡には郭跡と土塁が明瞭に残り、南側は川堀で断ち切った上に土塁を配して防御を高めている。

見方によっては虎口と考えられる箇所もある。

現在、居館跡には戦国時代の土塁であると示す案内板が立っている。

 

山田氏館は仮称です。地元の方のお話によると柏尾郷を治めた領主の館であったと伝えられます。

【 遠 景 】

居館跡

土塁付近の案内板

【 概 要 】

名 称山田氏館(やまだしやかた) ※仮称

所在地:鳥取県西伯郡南部町福成

築城年:不明

築城主:不明

城 主:毛利氏…山田重直

    吉川氏…山田盛直

文 献:福田正八幡宮の栞(参考)

形 態:居館跡

遺 構:郭跡、土塁、堀、虎口?

現 状:山林

種 類:史跡指定なし

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

永禄7年

1564年

尼子氏の支配する城であったが、新山要害山城安田要害山城)など

近隣諸城が毛利氏に攻略されると当城も属城になったと伝えられる。

丸山城あるいは丸山固屋の出来事として記述される)

天正13年

1585年

1月、豊臣氏と毛利氏の間で京芸和睦が確定したことにより、

伯耆国堤城の城主、山田重直らは旧領を追われ小鷹城の城主となった。

(当城も小鷹城の支城として統治された)

天正20年

1592年

3月14日、小鷹城の城主、山田重直が没する。

山田家の家督は次男、山田盛直が引き継いだ。

慶長6年

1601年

関ヶ原の戦いで西軍として戦った吉川広家が岩国へ転封となると

山田盛直ら山田家も付き従い、吉川家の家臣として共に岩国へ移った。

【 写 真 】

土塁

郭跡

堀跡

案内板

 

―同好会活動日誌―

文献に記述は見られないけど、西伯耆から尼子氏が駆逐された後に毛利氏が

統治していた頃の伯耆国小鷹城の城主、山田氏(山田重直)は大変な名君で

あったそうで、親子二代に渡ってこの柏尾の地に善政を敷いたと言い伝えが

残っているみたいね。

 

小鷹城跡の秋葉神社、小應城跡の小鷹神社、そしてこの山田氏館跡のいずれも

県や町の史跡指定がされていない城跡だけど、地元の方々によって比較的綺麗に

手入れがされている様子で、昔の城主の善政に対する感謝の気持ちが現在も

地元の方々には代々受け継がれているのかも知れないわね。

地元の方々は歴史にも詳しくてお城以外のお話もたくさん教えて頂いたわ。

小鷹神社の案内板では山田重直が若宮さん、長男の山田信直(蔵人信直)が

今宮さんと呼ばれたみたいで、

若宮さんは五穀豊穣の神に比して稲荷宇気持神(いなりうきもちのかみ)、

今宮さんは武勇に比して素益鳴尊(すさのうのみこと)として、今でも柏尾の

守り神として崇められているみたいだね。

他にも柏尾の氏神、産土神(うぶすなかみ)とも呼ばれているみたいで、

神様として言い伝えられるくらい、素晴らしい名君だったみたいだね。

名君とされた山田氏とは正反対に、あまり良くない言い伝えが残るのが尼子氏。

毛利氏との激戦が行われた頃、この地では尼子氏によって兵士・住民、

老若男女を問わず虐殺が日常のように行なわれたそうよ。

殺された人数は5万人に達するとも云われ、当時の周辺人口から考えると

8割~9割の人数に当たる数字らしく、誇張された数値かも知れないけど、

尼子経久が指揮を采ったとなると信憑性が格段にあがるのよね。

 

戦の世が全て悪いと言ってしまえばそれまでだけど、柏尾の地以外でも尼子氏は

伯耆各地で似たようなことを行っていたと記述も多く残るので…

山中幸盛を大河ドラマに!」なんて言われても素直に応援できないのよね。