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HOME > 伯耆古城図録 ~西伯郡篇~ > 古要害 > 同好会活動日誌

◆古要害

 

【 概 略 】

城についての伝はなく、詳細は不詳。字名に「古要害(こようがい)」とだけ残る。

所在する山は「秋葉山」「護国山」「常福寺山」と幾度か名前が変わっている。

 

会見町誌続編では古要害について以下の記述のみが見える。

「数段の郭群があり、尾根を切断する堀が半周する。16世紀後半。伝不詳」

 

周辺の字名には「大屋敷」「中屋敷」「馬場脇」など、要害を管理した有力者の存在に繋がる地名が見え、

麓の集落も字名に「古市場」と残り、一定規模の城下町が形成されていた事が考えられている。

 

伯耆国手間要害は毛利氏が西伯耆で重要視した5城の一つに数えられるが城下町形成の痕跡には乏しく、

政庁としての機能はこの古要害に求めた可能性も推測できる。

 

石山公園由来記(会見町誌収録)では伯陽電鉄(法勝寺鉄道)の手間駅開業に合わせ、

降車客を呼び込むための観光地創出策として石山公園整備に着手した旨が記載されている。

 

1929年(昭和4年)秋、三十三体の観世音菩薩の石像を勧請し、

1930年(昭和5年)5月、公園入り口に「観音霊場石山公園開発記念碑」を置いたとある。

 

桜など花見の名所として親しまれたが、大東亜戦争の開戦を機に徐々に廃れていったとされる。

 

石山公園の開発が行われたことから、古要害は徹底した改変を受けていると考えられる。

主郭南側を半周する空堀も一部の伝承では山から伐採した材木を運んだ際に出来たものである。とする言い伝えも聞かれる。

 

伯耆志には寺内村の条、古屋舗の項に古要害についてと思われる記述が見える。

「村の南際に在り。空隍(空堀)の形を存す。何人の墟にや」

【 遠 景 】

龍門寺側からの遠望

集落からの遠望

護国山龍門寺

【 縄張図 】

古要害略測

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 概 要 】

名 称古要害(こようがい)

所在地:鳥取県西伯郡南部町天萬

築城年:16世紀頃?

廃城年:16世紀後半頃?

築城主:不明

城 主:不明

文 献:伯耆志、会見町誌(昭和48年11月発行:会見町誌編さん企画委員会)、

    会見町誌続編(平成7年10月発行:会見町誌編さん委員会)、

    角川日本地名大辞典 31鳥取県(昭和57年12月発行:角川日本地名大辞典編纂委員会)

形 態:丘城

遺 構:郭跡、横堀、空堀、櫓台、切岸、土塁、虎口

現 状:石山公園、山林

種 類:史跡指定なし

登城難易度⇒★★(普通)

【 地 図 】 西伯郡内の城跡

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

~戦国時代

16世紀頃

伯耆国手間要害の支城の一つと考えられる。

昭和4年

1929年

この頃、石山公園の整備が開始されたと考えられ、同年秋、三十三体の観世音菩薩の石像を勧請。

昭和5年

1930年

5月、公園入口に「観音霊場石山公園開発記念碑」を設置。石山公園が完成。

【 写 真 】(訪問日:2015/12/06) 

石山公園入口(北側)

西側の土塁(方形居館跡?)

西側土塁は居館との境界と考えられる

西側土塁上を進むと更に土塁

西側土塁上の様子

主郭西側の土橋(北側)

主郭の様子

主郭の様子

主郭南西には櫓台

櫓台には秋葉社と五輪塔

主郭南側の土塁

主郭南側の土塁

主郭北東の腰郭(主郭から)

主郭北東の腰郭(北一郭から)

主郭から城下町の眺め(古市場)

北一郭の様子

北一郭の西腰郭

北一郭から土橋を下りた北二郭の様子

北二郭の西側の郭跡群

北三郭の様子

公園入口は虎口状になっている

公園入口の土塁

公園入口を左手に空堀を進む

左が北東の郭跡群へ続き、右は主郭へ続く

左側が北東三郭、通路が北東一郭

北東二郭

北東一郭の様子

北東一郭の土塁

北東一郭の土塁の先は堤

北東一郭西側には虎口から空堀へ

北東一郭と空堀を分ける土塁

主郭南東の空堀

主郭南東の土橋(畑地の畦道?)

南一郭は土塁で二区画に分けられる?(東側)

南一郭(西側)

南の空堀から主郭

主郭西側の土橋(北側)から北側の空堀

主郭西側の土橋(北側)から南側の空堀

主郭西側の土橋(南側)

主郭西側の土橋(南側)から主郭の空堀(西側)

主郭の空堀(南側)

主郭の空堀(南側)と土塁

主郭の空堀(南側)と土塁

井戸跡

井戸跡

石山公園開発記念碑

【同好会活動日誌】

残念ながら城跡に関する情報は全く無し。

手間要害の支城の一つと云われていることから、毛利氏と尼子氏が覇権を争った頃は最前線の一つと考えられるわね。

字名にも「古市場」という地名が残っているようで、要害の麓には城下町が存在していた可能性もあるそうよ。

 

…言われてみると毛利時代、手間要害の麓に城下町が無いのが気になるわね。

もしかして「天万城」ってココなんじゃないかしら?

「石山公園」として若干の整備がされてたようで普通に歩けるし、少し森の中を覗いてみると堀みたいな地形があったり、

歴史的な詳細はあまり伝わってないけど見て周るには楽しい城跡だったね。

何処までが公園化で改変されたかわからないけど、南側の空堀や主郭の櫓跡は見所ね。

空堀に関しては山から伐採した材木を運んだときに出来た溝だ、って言われる方も居られたけど、

主郭を囲むよう溝状になっていることから元々空堀があって、そこを道として再利用した可能性は十分ありそうね。

本当は麓の護国山龍門寺でお話を伺いたかったけど電話も繋がらずで今回は断念。

また近くを寄ったらお話が聞けるといいね。

不確定ながら伯耆志には寺内村の南端に空堀を有する施設の痕跡があったと書かれているのを見つけたわ。

候補となりそうな場所が数箇所あるけど。三崎館(三崎城)や延命寺居館は三崎村の条に、宮前館は宮前村の条に、

手間要害は村の南端付近だけど「誰の古跡か不明」と記されている点から当然除外、となると寺内村の南境に位置しそうな

城郭は南東に所在する古要害か峰山砦、南西に所在する膳棚山砦が有力かな?

 

伯耆志には「空堀」を強調して書かれている点を考慮すると古要害を押したいけど、特定をするには最低、

峰山砦と膳棚山砦を調べてからになりそうね。