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HOME > 伯耆古城図録 ~西伯郡篇~ > 道垣豪族居館 > 同好会活動日誌

◆道垣豪族居館【訪問日:2014/05/17】 登城難易度⇒★(易しい)

※寺院内の敷地は樹木葬という性質上、一般の墓石が並ぶお墓とは違い墓地や境界が判り難いです。

 見学などの際は無闇に歩き回り、お墓を荒らしてしまうようなことが無いようお願いします。

 (当企画は金華山 正福寺さまの許可を頂いた上で撮影、見学を行っています)

【 概 略 】

居館域は1町(約100m)四方の方形居館であり、郭跡の周囲を土塁で囲み、

更に堀を巡らせ防御力を高めていたと考えられる。(発掘調査の報告書より)

土塁の内側にも堀があったようで、内堀と外堀を持った居館跡の可能性も。

 

墓地の整地前に大山町教育委員会による道垣遺跡の発掘調査が行われ、地層の年代判定から居館が

12~13世紀頃に建造され、16世紀頃までかけて2回前後の拡張が行われたことも判明している。

尚、大山町内では平地で発見された居館跡は当居館が始めてとされる。

 

12~13世紀頃であれば名和長年の一族、或いは近い有力豪族(荒松氏など)の居館、

16世紀頃であれば伯耆国富長城の城主、福頼左衛門尉の一族など国人衆の居館とも考えられる。

 

現時点で居館に関する記述は一切見つけることができず、発掘による物的証拠からのみ居館(城郭)が

所在したことが推測されるが、汗入史綱では周辺を羽田千軒と呼ばれた時代があったとされ、

城下町が所在した可能性が伺える。

地理的にも大山寺とは密接な関係があったと考えられるが、羽田千軒の名前の由来が大山寺侍、

羽田氏に因むものであれば大山寺と当地の関係が判る可能性もある。(全く関係ない可能性も…)

 

※居館跡が所在する「道垣遺跡」から当企画では「道垣豪族居館」と呼称しています。

 「道垣豪族居館」が正式名称ではありませんのでご注意を。

【 遠 景 】

居館域は金華山 正福寺

写真中央から右がお墓の区画

【 概 要 】

名 称道垣豪族居館(みちがきごうぞくきょかん)※仮称

別 名:道垣城?(みちがきじょう)※仮称

所在地:鳥取県西伯郡大山町茶畑

築城年:12~13世紀頃(平安時代頃~鎌倉時代頃)

増改築:16世紀頃(戦国時代)

築城主名和氏?、荒松氏

城 主:名和氏…名和氏?、荒松氏

    伯耆山名氏…不明

    尼子氏…福頼氏

    毛利氏…福頼左衛門尉の一族?

文 献:大山町 文化財ガイドマップ、汗入史綱(参考)

形 態:居館跡

遺 構:郭跡(方形)、土塁、切岸、堀

現 状金華山 正福寺、墓地、水路

種 類:史跡指定なし

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

平安時代頃

鎌倉時代頃

12世紀頃

13世紀頃

発掘調査によってこの時代に居館が築かれたとされる。

この時代に当地を治めた名和氏荒松氏に関係する豪族の

居館と考えられる

戦国時代

16世紀頃

伯耆国富長城の城主、福頼左衛門尉に関係する国人衆の居館と

考えられる。

【 写 真 】

南東端の土塁には祠

南側の土塁

南側の土塁の内側に堀があったとか

東側の土塁と埋められた堀

北側の郭跡(墓地)の様子

北側の郭跡(墓地)の様子

南西端の土塁

南西端の土塁上から西側の土塁と郭跡

南側の土塁は土橋のようにも見える

南側の堀跡

西側の土塁と郭跡

(写真左手の境界より左は墓地)

西側の土塁の虎口

虎口付近には礎石の残骸

U字溝で改変されているが西側の外堀

―同好会活動日誌―

こちらも先日紹介した伯耆国文珠領城(仮)と同じく、

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)に載っていない城跡よ。

こちらが伯耆国文珠領城(仮)と決定的に違うのは大山町教育委員会さんが

発掘調査を行い、地層の年代から居館の存在した大よその年代までわかっている点。

 

伝承や資料への記述が見られないのは伯耆国文珠領城(仮)と同じだけど、

調査された遺構の状態から在地豪族の居館跡があったのは間違いないみたいよ。

書物には記載がないけど、発掘調査で遺構が出ているのであれば文句なしだよね。

あ、発掘の様子は金華山 正福寺さんのホームページにも掲載されているので

詳しくはそちらで。(遺跡紹介のページはこちら

ちなみに発掘調査の後、東と南の堀は埋められてしまったそうよ。

まあ、発掘調査した遺跡は埋め戻して保存するのが通例なので仕方ないけどね。

 

あ、残っている堀もU字溝を埋め込まれた立派な用水路になってしまってるわね…