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HOME > 伯耆古城図録 ~西伯郡篇~ > 三崎館 > 同好会活動日誌

◆三崎館

※三崎居館の城域の多くは個人所有地がほとんどで民家も多いです。所有者の許可無く登城はされないようお願いします。

 

【 概 略 】

成立が複数の時期に分かれる居館群で、別名に延命寺居館とも云われる。

城域の範囲により大きく3つの呼称が使われている。

 

①延命寺居館は縄張り中程にある大小2つの郭跡。(会見町誌 続編)

②集落の南側丘陵の山林周辺、或いは集落北側の日御碕神社が鎮座する丘陵が三崎城。(伯耆志、日本城郭全集、日本城郭大系)

③延命寺居館と三崎城を合わせた城域の総称として三崎館。(伯耆志、鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編))

 

伯耆志では三崎村の条、城跡の項と寺内村の条、古屋敷の項に記述が見える。

 

三崎村の条、城跡の項

「村の後の山なり。伝詳ならず」

 

寺内村の条、古屋敷の項

「村の南際に在り。空隍(空堀)の形を存す。何人の墟にや」

※寺内村の条については伯耆国古要害などを指す可能性もある。

 

会見町誌 続編では土塁に囲まれた大小の郭を「延命寺居館跡」としており、三崎居館群として

「堀・土塁を持つ複数の居館群で時期差がある。大塚家の伝承地か?」と補足解説が記される。

 

「三崎」の地名は御崎や岬など、かつては集落近くまでが入り江や海岸線、或いは湿地帯であったことが由来と云われる。

集落北側の丘陵には日御碕神社が鎮座していること、「岩船」と伝わる地名からも海に縁があったことが推測できる。

 

伯耆志に記述の見える「村の後の山」が集落北側、南側どちらの丘陵を指すか不明であるが、

南側の丘陵付近には方形の土居と思われる郭跡や井戸跡が多く見えるため平時の居住区、

北側丘陵には岩船古墳があり古墳を利用した山城、日御碕神社は城砦鎮護のためか城跡を利用して建てられたと考えると、

当城は北側丘陵を詰めの城、南側の丘陵までを居館とし、海城として海防の機能を有していたことが推測できる。

 

戦国期には伯耆国手間要害に属した城砦(伯耆国膳棚山城など)を詰めの城とした平時の居住区とも考えられている。

 

【 遠 景 】

集落の遠望

赤猪岩神社近くからの遠望

南側丘陵

【 縄張図 】

【 概 要 】

名 称三崎館(みさきやかた/みさきのやかた)

別 名:延命寺居館(えんめいじきょかん)、三崎城(みさきじょう)、

    三崎居館/三崎居館群(みさききょかん/みさききょかんぐん)

所在地:鳥取県西伯郡南部町三崎ほか

築城年:不明

廃城年:不明

築城主:不明

城 主:大塚氏?

文 献:伯耆志、会見町誌(昭和48年11月 会見町誌編さん委員会)、

    会見町誌 続編(平成7年10月 会見町誌編さん企画委員会)、

    日本城郭全集11(昭和42年10月 株式会社新人物往来社)、

    日本城郭大系 第14集 鳥取・島根・山口(昭和55年4月 株式会社新人物往来社)

形 態:居館跡、丘城、海城

遺 構:郭跡、空堀、土塁、井戸跡

現 状:山林、竹林、畑地、宅地、墓地

種 類:文化財指定なし

登城難易度⇒★★(普通)

【 地 図 】 西伯郡内の城跡

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

不明

不明

大塚氏伝承の地と云われる。(会見町誌 続編)

戦国時代

不明

伯耆国手間要害に属した城砦を詰めの城とした平時の居住地と考えられている。

【 写 真 】(訪問日:2014/11/08、2015/11/29)

縄張図北端の方形居館跡(北北郭跡)

北北郭跡の北側土塁

北北郭跡の北西側土塁(コの字)

北北郭跡の北西側土塁

北北郭跡の西側郭跡

北北郭跡の南東端の土橋

縄張図北端から南へ2番目の帯郭跡(北中郭跡)

北中郭跡の帯郭跡

北中郭跡には石塔と五輪塔

北中郭跡北側の土塁跡

北北郭跡と北中郭跡を隔てる土塁と空堀

北北郭跡と北中郭跡を隔てる土塁の虎口

北中郭跡の北側は畑地

北中郭跡(畑地)

北中郭跡の西側土塁(畑地の境界?)

北中郭跡は道路によって分断されている

北南郭跡は空堀跡や土塁跡が散見できる竹林

北南郭跡の様子(空堀)

北南郭跡の様子(土塁)

延命寺居館(北)の土塁

延命寺居館(北)の土塁

延命寺居館(北)の土塁(北南郭跡から)

延命寺居館(北)の土塁

延命寺居館(北)の郭跡

延命寺居館(北)の郭跡

延命寺居館(北)と(南)を隔てる空堀

延命寺居館(北)と(南)を隔てる空堀

延命寺居館(南)の北側郭跡

延命寺居館(南)の北側郭跡

延命寺居館(南)の北側郭跡に石の残骸

延命寺居館(北)と(南)を隔てる土塁

延命寺居館(北)と(南)を隔てる土塁

延命寺居館(南)は道路により分断

延命寺居館(南)(右が北、左が南)

延命寺居館(南)の南側郭跡

延命寺居館(南)の南側郭跡

集落南側丘陵の土塁

集落南側丘陵の郭跡と土塁

集落南側丘陵の郭跡

集落南側丘陵の郭跡と土塁

集落南側丘陵の土塁と空堀

集落南側丘陵には井戸跡が多数

集落南側丘陵の井戸跡

集落南東側屋敷跡の井戸跡(不明瞭)

集落南東側屋敷跡の空堀

集落南東側屋敷跡

集落南側空堀へ

集落南側の空堀(堀切?)と土塁

集落南側の空堀

【同好会活動日誌】

実は1年かけて場所の特定など調査してるんだけど、残念ながら城跡(居館跡)に関しての詳しい情報や伝承は不明ね。

伯耆志には三崎村の後方の山が城跡と記してあるけど、北側の丘陵なのか南側の丘陵なのか判断が難しい見たいね。

南側には井戸跡が多く見られ、恐らく居住区と考えられる事から北側の日御碕神社が鎮座する丘陵の方が「三崎城」なのかも

知れないわね。

 

詰めの城を集落北側の丘陵とするか、膳棚山城とするかは時代や地形によって分かれるかも。

 

それを踏まえて呼び方はそれぞれあるようで、

 

・南の道路によって分断されている空堀で囲まれた大規模な郭跡周辺が延命寺居館跡。

・南の丘(丘陵に墓地や井戸跡のある郭跡を持つ丘)が三崎館。

・北の道路で分断されている土塁を持った小規模な郭跡群も三崎館。

・岩船古墳や日御碕神社の鎮座する丘陵が三崎城?

・延命寺居館跡と三崎集落周辺に所在する居館群、三崎城跡の範囲を合わせて三崎居館群。

 

はっきりとした分類はわからないけど、成立時期で分かれてるみたい。

どの時代まで三崎村の周辺が海辺だったかによっては、出雲千家家の小松城攻めのルートも絞られそうだね。

三崎村の周辺が海辺だったのは戦国期よりも遥か大昔の時代じゃないかしら…。

或いは海ではなく、法勝寺川が近くを流れていて舟が使えたから「みさき」とした可能性も。

周囲に港に関係する地名が多く見つかれば海だったのか川だったのか推測は出来そうね。

 

日御碕神社の鎮座する北側の丘陵が三崎城っぽいので、また近所の方に話を伺ってみたいわね。