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HOME > 伯耆古城図録 > 伯耆古城図録 ~西伯郡伯耆町篇~ > 旧西伯郡溝口町 > 二部城

◆ 二部城

【 概 略 】

伯耆志の二部村の条、古城の件に以下の記述が見える。

「一は要害山と云ふ。永禄中、足羽将監此に居すと云へり。説足羽氏の下に載す。近年、鉄砂を流すか為に城跡大に崩れるといへとも今なほ形様を存す」

 

溝口町誌にも伯耆志を元にした記述が見える。

「字古城山にあり。西に面する一弧山、足羽将監重成の居城の跡という」

 

伯耆志に見える「鉄砂を流すか為に城跡大に崩れる」の記述を当城に当てはめるとすれば北の郭跡(二ノ丸、或いは三ノ丸)と考えられる。

現在の北の郭跡は墓地やお堂、畑地へと改変されるが、竹林の一部に土を取ったような痕跡が見える。(縄張図では北の郭跡にあるL字型の地形部分など)

 

足羽氏について伯耆志では以下のような記述が見える。

「越前国朝倉氏に属した一族。永禄中、織田氏によって朝倉氏が滅ぶと当村へ来り、要害山に住す。足羽将監(初代)の子、足羽太郎兵衛某(二代目)の子、理兵衛(三代目)の頃、要害山の居、失火により累々の武具家財(貨財)を失った」

 

足羽氏三代目の頃に要害山から下山し現在の足羽家住宅の場所へ移ったとされる。

 

郷土史「ふる里 野上の郷」では「二部要害城」として記述が見える。

「 永禄の頃(1558年~1569年)、越前足羽将監重成が二部要害山に来城して傳燈寺の外護を修復した」

 

足羽氏と天寧山傳燈寺(でんとうじ)の関係性も伺える。

足羽家住宅についても慶長年間(1596年~1614年)には米子城主中村氏、月山富田城主堀尾氏通行の旅宿に供し、1638年(寛永15年)、松江松平侯入封以来参覲の本陣を勤めたと記述が見える。

 

足羽氏については織田氏に追われ二部村へ落ち延びてきた説、縁故を頼って二部村に来た説など諸説が伝えられているが足羽家にも詳しい話は伝わっていないとのことであった。

【 遠 景 】

南東の高台からの遠景

主郭南東の腰郭

北の郭跡の様子

二ノ丸の遠景

【 見どころ 】

足羽家住宅

慶長年間(1596年~1614年)には米子城主中村氏、月山富田城主堀尾氏通行の旅宿に供し、1638年(寛永15年)、松江松平侯入封以来参覲の本陣を勤めました。

【 概 要 】

名 称二部城(にぶじょう)

別 名:二部下要害(にぶしもようがい)、二部要害城(にぶようがいじょう)

所在地:鳥取県西伯郡伯耆町二部(字古城山)

築城年:1558年~1569年頃(永禄年間)

廃城年:不明(永禄年間)

築城主足羽重成

城 主:(毛利氏)足羽重成足羽太郎兵衛某、足羽理兵衛足羽氏

形 態:丘城

遺 構:郭跡、腰郭、帯郭、石垣、礎石、土塁、切岸、虎口、櫓台、空堀(横掘)

現 状:山林、畑地、墓地

種 類:史跡指定なし

【参考文献】

・伯耆志

・日野郡史 前篇(昭和47年4月 日野郡自治協会)

・日野郡史 中篇二(昭和47年4月 日野郡自治協会)

・溝口町誌(昭和48年9月 溝口町誌編さん委員会)

・ふる里 野上の郷(平成11年12月20日 溝口町二部公民館 著)

・溝口町制施行40周年記念 文化財ガイドブック ふるさと溝口(1993年 溝口町教育委員会編)

【城娘】

 

【 縄張図 】

二部城略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

永禄年間

1558年

1569年

永禄年間

1558年

1569年

三代目足羽理兵衛の頃、失火により居を失い下山、現在の足羽家住宅の場所へと移ったと云われる。(ふる里 野上の郷)

この失火による退去をもって廃城と考えられている。

【 写 真 】(訪問日:2014/10/12)

主郭の西側には石垣が点在

畑地へ改変された郭横から主郭へ

主郭南西の帯郭

主郭南西の帯郭に対する土塁

主郭南西の空堀

主郭南西の空堀には礎石の残骸

主郭南西の空堀と土塁

空堀を進むと終点に虎口と礎石

主郭南西の腰郭

主郭の様子

傳燈寺の向かいから北の郭跡への道

北の郭跡への道

北の郭跡の様子(お堂)

北の郭跡の様子

北郭と主郭を結ぶ周辺には石垣

北の郭跡から主郭へと繋がる道

点在する石垣

切岸の上から(大手への道?)

北の郭跡の土塁(真砂土採取跡?)

足羽家住宅の門

足羽家住宅の裏