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HOME > 伯耆古城図録 ~西伯郡篇~ > 末吉城 > 同好会活動日誌

◆末吉城【訪問日:2013/09/08】 登城難易度⇒★☆☆☆☆(易)

正確な所在地は不明だが尼子残党の将、山中幸盛が毛利氏に対抗し、末吉村から国信村を空堀で囲み、

土塁を高く配して城砦化したと云う伝承が残っており、末吉・国信集落の全てが城跡であったとされる。

 

一説には

元寇(1274年(文永11年)の文永の役、1281年(弘安4年)の弘安の役と二度にわたる蒙古襲来)

に対する海岸線の防衛拠点として伯耆国小波城の支城として築城された一城とする説も見える。

 

※遺構の紹介は筆者の私見によるものです。予めご留意ください。

毛利氏から和議の使者として尼子氏に遣わされたが、尼子方に謀殺された美甘与一右衛門を悼む美甘塚、

交渉が上手くまとまったと見せかけ美甘氏を謀殺した尼子方の将、山中幸盛の供養塔が並ぶ不思議な空間。

写真の美甘塚は近年新しく建てられた物で、この右手側にある小さな五輪塔が本来の美甘塚である。

また、山中幸盛の供養塔は個人の庭に散乱した状態の五輪塔を移設し、この場所に祀ったとされる。

江戸時代の文献「伯耆めぐり」では、この五輪塔が山中幸盛の供養塔であるとしている。

国道9号線を挟んだ北側は主に畑地となっているが、空堀に土塁と思われる地形が残る。

道路は空堀、土塁と思われる土盛には礎石の残骸など痕跡をたくさんの場所で見ることができる。

土塁の裏側は郭跡のような部分が多く見られる。

総じて北側は海岸からの襲撃に備える施設があったと考えられる。

後世の物と思われるが、石垣造りの通路。

堀切のような形状が見られる箇所も存在する。

国道9号線を挟んだ南側は集落となっているが、石垣や礎石の残骸など、とにかく石が目立つ。

南側集落にも土塁や空堀であったと思われる高低差を感じる場所が多数ある。

集落の中ほどには「若之宮」と呼ばれる社があるが、土塁で囲まれ、背後は堀、また門の跡と思われる

痕跡もあることから、ここに主郭、もしくは居館があった可能性を考えたい。

写真最後の土塁の先は水を溜める堤であるが元々は水を溜める堤ではなく、

南側からの敵襲に備えるための土塁であったとされる。

現在は水を湛えているが毛利方が3重櫓を造り、矢や石を放って攻撃を行った場所の一つと考えられる。

集落内の堀と土塁。

西端の郭跡と堀。周辺の高低差からここも毛利方が櫓を造り攻城を行った場所の一つとも考えられる。

(おまけ)集落内には五輪塔も点在する。毛利氏と尼子氏の激しい戦いがあったことが伺える。

―概 要―

名 称:末吉城(すえよしじょう)

別 名:末石城(すえいしじょう) 、末次城(すえつぐじょう)

築城年:1274年(文永11年)以降 ※蒙古襲来以降の築城?

改 修:山中幸盛(元亀年間の尼子再興戦における末吉村、国信村の城砦化)

所在地:鳥取県西伯郡大山町末吉

築城主:不明

城 主:毛利氏…福頼左衛門尉神西元通

    尼子氏…神西元通山中幸盛

文 献:陰徳太平記、国信神社鎮座物語、老翁物語、毛利家文書、伯耆民諺記、淀江風土記、

    大山町文化財ガイドマップ

形 態:平城・海城

遺 構:郭跡、石垣(礎石)、土塁、空堀、堀切

現 状:末吉集落

種 類:史跡指定なし

地 図:

―年表―

年号 西暦 出来事

文永年間

弘安年間

不明

1274年(文永11年)の文永の役、1281年(弘安4年)の弘安の役

二度にわたる蒙古襲来の脅威から、元寇に対する海岸線の防衛拠点

として伯耆国小波城の支城として築城された一城とする説がある。

元亀2年

1571年

6月の尼子再興戦で尼子氏の遺臣、山中幸盛が毛利氏から奪還した

3城の一つとして伯耆国淀江城、伯耆国稲吉城と共に記述される。

尼子氏から毛利氏へと降っていた神西元通が再び尼子方に寝返り、

大山経悟院の支援を称して送り込まれた山中幸盛と共に国信村を

城砦化し、寡兵ながら毛利氏へ抵抗した。

 

山中幸盛は当城での戦いで敗れ捕縛されると、

(8月に本拠の新山城で捕らえられたとする説もある)

その後の詳細は不明だが、毛利氏は当城を陥とした後に伯耆国寺内城

攻めており、西伯耆から尼子氏の勢力を一掃した頃には諸城と揃って

廃城したと考えられる。

 

また、吉川元春によって末吉城の跡地に美甘与一右衛門の忠義を称え、

その非業の死を悼んで碑が建てられたとも云われる。

―同好会活動日誌―

尼子再興戦!【2013/10/20更新】