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HOME > 伯耆古城図録 ~西伯郡篇~ > 手間要害 > 同好会活動日誌

◆手間要害

 

【 概 略 】

手間山の山頂を中心として「小屋ヶ平」「鐘撞(かねつき)堂」「猿ヶ馬場」などの郭跡群と周辺の山や丘陵に築かれた無数の砦や郭跡を合わせて

「手間要害」と云われる。

現在も完全な城域の解明はされておらず、鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)に図志される縄張図で大方1/3程度の解明とされている。

城域は広大で数百を超える郭跡が存在し、伯耆国膳棚山城、伯耆国古要害、伯耆国天万固屋高固屋(絹屋)などの周辺諸城も手間要害に含むとされ、

平時は麓の延命寺居館三崎館に居住したと考えられている。

 

城の特徴としては郭跡内に道を通し、近接戦に特化した縄張となっている。

また、ほぼ全ての郭跡が孤立しないようにも造られており、瞬時に全てが包囲されない限りは常に退路が確保できる構造であり、

攻め手にとっては全ての城砦の制圧が必要となるため多くの兵力が必要と攻め難い一方、

守り手にとっては城砦間で自由な移動が可能でゲリラ戦も展開しやすく少数でも守り易い城となっている。

 

これまでは伯耆山名氏による出雲国を睨んだ城砦(簡素な砦であったとも)の築城が始まりで、尼子氏滅亡後から毛利氏によって大規模で本格的な

譜請が行われたとする説と考えられていたが、近年の説では伯耆山名氏(日野氏)から尼子氏の頃による築城及び増改築でほぼ完成されており、

毛利氏による改変は主郭周辺に鐘撞堂と限られた範囲であったと考えられている。(毛利氏から杉原盛重へ手間の城砦の増強を命じる書状に見える)

 

道中には出雲国月山富田城にも存在する尼子式の築城技術が見える箇所が数箇所あるが時代は当要害の方が古く、

大永の五月崩れ以降に当要害を領有した尼子氏が築城技術を組み入れたとも考えられる。

 

因伯古城跡図志に以下の記述が見える。(一部要約)

「天満村の要害で杉原播磨守(盛重)の居城と申し伝える。

 大山高山であり会見(郡)のこらず日野郡、江尾谷筋、八郷辺のこらず相見える。

 後のとおり法勝寺谷を請け、険阻にして林有り。近村に竹木有り。山上に赤岩権現の小社有り。

 山上に水有り、夏は渇水して乏し。山の高さ凡そ百五十間(300m)。麓より二百間ばかりなり」

 

伯耆志には天万山の件に以下の記述が見える。(一部要約)

「村の西南五丁許に在て上る事八丁と云へり(略)此地方の高山なり。故に数里の外一望にして指差す山径甚だ険なり。

 絶頂松林あり。岩坪山と呼ぶ。又、往古城郭ありし故に土人常は要害と呼び、郡中廣くは天満山と呼ぶ。

 伯耆戦闘記に峰松山とあれども他に考ふる所なし。山上南方に小祠あり。赤岩権現と称す。此処に岩見えず。

 然れば赤猪石の故事を以て、かく名づけしなるべし。天万山の名、此山を以て主とする故なり(略)

 其地稍高くして周回二丁許、北方下る事一間許にして又平地あり。周回百間許、此地に井あり。百日の旱魃(かんばつ)に涸るる事なしと云えり。

 又下る処の平地周回七拾間許南方下る処に又二丁許の平地あり。西北に出櫓と云う地あり。其下に鐘撞堂の跡あり。

 又其下に猿が馬場と呼ぶ地あり。長八十間、横二十間許なるべし。滑谷(ナメリたに)と呼ぶ。地方に武士の古墳あり。

 此城何人の草創にや民諺記に大永中、出雲尼子経久数万騎を卒して当国に入り山名の領内「米子」「天万」「尾高」「淀江」等の城を攻略し云々と

 見えて詳なる説なし。然れば此後は尼子氏より兵を籠れしなるべし。伯耆闘戦記に浅野越中守寶光と云う人物、当城に在りて

 鎌倉山城主戸田安房守と云う人物と戦ひし趣記せるは妄説なる事岡成村の下に記す。

 かくて永禄八年、毛利氏の大軍出雲に入りし時、当城の兵遁走る尾高城主杉原盛重其部下菖蒲左馬允入江大蔵少輔菊池肥前守に三百人を

 附けてこれに入らしむ(陰徳太平記)爾来、吉川氏の指揮なり。然るに当城を杉原氏の本城とする説あるは甚だ非なり。

 永禄七年杉原氏尾高城に入りてより郡中普彼属城たり。民諺記の趣これに同じ。其後、何れの頃廃せしにや詳ならず。

 当山危岩怪石多し。シヲレ谷と呼ぶ地にて石工常にこれを削る岩坪山の名これに因れるなるべし」

 

伯耆志では杉原盛重と当城の関連性は間違いないとした上で、伯耆闘戦記や伯耆合戦記は村芝居の台本であり、

浅野越中守寶光戸田安房守といった人物や合戦は創作であると評している。

【 遠 景 】

北側からの遠景

登城道までは看板が目印となる

登城口の案内板

【 縄張図 】

【 概 要 】

名 称手間要害(てまようがい)/手間要害山城(てまようがいやまじろ)

別 名:天満城/天万城/天萬城(てまじょう)、手間固屋/天万固屋/天萬固屋(てまこや)、

    岩坪山城/岩壺山城(いわつぼやまじょう)、

    峰松山城(みねまつやまじょう)※創作の城名とされる

所在地:鳥取県西伯郡南部町寺内ほか

築城年:不明(一説には1000年頃(平安時代頃)とされ、更に遡るとも推測されている。

廃城年:不明

    廃城時期には諸説あり、1591年(天正19年)に毛利氏が伯耆国に領有した

    五城のうちの一城として名が見える事から、これ以降の廃城と推測されている。

    (関ヶ原の戦いまで維持したとも云われる)

    異説には1582年(天正10年)、杉原家のお家騒動の際に落城し1584年(天正12年)に

    廃城とする説もあり、当説では1591年(天正19年)までに毛利氏が伯耆に領有したのは

    四城とし手間要害が含まれていない。(廃城後も五城に含む説もある) 

築城主日野氏

城 主:伯耆山名氏…日野氏

    尼子氏…日野孫左衛門浅野寶光※創作の人物とされる

    毛利氏…日野孫左衛門杉原盛重杉原景盛菖蒲重政入江大蔵少輔菊池肥前守

        吉田元勝森安又五郎※岩壺山城主とされる

文 献:伯耆志、伯耆民諺記、伯耆民談記、因伯古城跡図志、陰徳太平記、伯耆合戦記、

    伯耆闘戦記、会見町誌、米子史談、山田家文書、小早川隆景書状、

    手間要害第1次発掘調査、手間要害発掘調査報告書Ⅱ-第2次調査-、

    因伯の戦国城郭-通史編-(1986年 高橋 正弘 著)、

    天満鎌倉山合戦記(昭和44年1月発行)

形 態:山城

遺 構:郭跡、腰郭、帯郭、堀切、礎石、土塁、切岸、虎口、櫓台、竪堀、石組井戸跡、井戸跡

現 状:山林

種 類:史跡指定なし

登城難易度⇒★★☆(やや難しい)

【 地 図 】 西伯郡内の城跡

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

平安時代

1000年頃

この頃には簡素な建物が猿ヶ馬場付近にあったとされる。

不明

不明

伯耆山名氏の配下、日野氏によって築城と云われる。以後、日野氏の居城であったと推測される。

大永4年頃

1524年頃

この頃の城主は日野孫左衛門とされ、大永の五月崩れの後に尼子氏へ降ったと云われる。

永禄5年

1562年

毛利氏が尼子氏の支配する出雲国への侵攻を開始したとあり、伯耆の国人衆は相次いで尼子氏から離反すると、

当城の城主、日野孫左衛門も毛利方へと属したとされる。

11月5日、毛利氏に降った本城常光が謀殺とある。

永禄6年

1563年

本城常光の殺害が伯耆へ伝わると、先に毛利方へ降った尼子方の国人衆の多くは再び毛利氏から離反し尼子方へ属した。

当城の城主、日野孫左衛門も再び尼子方へ属している。

永禄7年

1564年

4月、片山某による焼討を受けたとある。

片山小四郎⇒毛利方の宍道玄蕃が籠もる手万要害(高固屋・宍道山とも)へ焼討とある。

片山平左衛門⇒尼子方の手万固屋(高固屋)へ焼討とある。

・片山某⇒新持山の固屋(伯耆国膳棚山城)を焼討とある。

(書物により勢力・場所が異なる)

永禄8年

1565年

毛利方の大軍(本隊)が伯耆に入ったと伝わると当城の城兵は遁走し当城は再び毛利方の所領になったと伝える。

毛利方は菖蒲重政入江大蔵少輔菊池肥前守らに三百騎を任せ当城の防衛に当たらせたとある。(陰徳太平記)

天正10年

1582年

杉原盛重の長男、杉原元盛と二男、杉原景盛との間で家督争いが起こると、

杉原景盛に叛意ありと毛利家から討伐隊が派兵され、菖蒲重政の拠った当城も落城したとされる。

天正12年

1584年

杉原家のお家騒動後に廃城したとされる。※異説有り

天正19年

1591年

この年までに毛利家が伯耆に領有した五城のうちの一城として記述が見える。(手間、保晶寺城、小田加城、黒坂城、日野城)

これ以後に廃城されたと推測する説がある。

不明

不明

吉田元勝が城主であったことを最後に書物への記載が見えなくなるとされる。(因伯の戦国城郭-通史編-)

当城は関ヶ原の戦いまで毛利方によって維持されたと推測される。

【 写 真 】(訪問日:2014/10/05、2014/10/19、2014/11/08)

主郭までは登り易い登城道が続く

道中には意図的に九十九折れとなっている

九十九折れの登城道は猿ヶ馬場までに多い

九十九折れの箇所には頭上に郭跡があり

伏兵が可能となっている

尼子式と云われる遺構

この裏に武者溜まりの郭跡が隠れている

武者溜まりの土塁

この先に登城道が見える

土塁から武者溜まり

櫓台の郭跡から登城道を見下ろす

櫓台の様子

櫓台の様子

登城道は何本も枝分かれし孤立を防ぐ

奇石・怪岩が多いと伯耆志にある

接近戦特化のため意図的に郭跡の中を通す

郭跡と登城道

平安時代のものとされる櫓台

猿ヶ馬場の郭跡

猿ヶ馬場の郭跡

猿ヶ馬場の郭跡付近に堀切のような遺構

猿ヶ馬場の郭跡から東側に無数の郭跡が存在

無数の郭跡は魚燐状に並ぶ

鐘撞堂の郭跡

鐘撞堂の郭跡

主郭の腰郭(東側)

主郭の大手

正面の道は木戸で門がされていたと云われる

主郭には朽ちた鳥居が見える

主郭の最頂部には社跡

主郭より南に一段下の郭跡

ここが片山某による焼討を受けた場所とされる

主郭より南に一段下の郭跡の土塁

主郭より南に一段下の郭跡の土塁

(上から)

主郭より北に三段下の郭跡の井戸跡

この井戸跡は石組みで出来ている

主郭西側の腰郭

主郭西側の腰郭先端には大穴

倒木跡と云われるが井戸跡とする記述も見える

主郭西側の腰郭の切岸

主郭北側へ続く連郭

礎石跡

礎石の残骸

主郭から大山方面の眺め

赤猪岩神社

赤猪岩神社

主郭にあった社は合祀されている

近くにある寺内8号墳の石室

【同好会活動日誌】

当城(要害)については未だ解明されていない部分が多いけど、推定される城域内には数百を超える郭跡が現存しているそうよ。

 

城域に関しても諸説あって、手間山周辺の山々もすべて手間要害と考える説もあって、その場合は古要害膳棚山城などの砦や

延命寺居館(三崎館)も城域に含まれるみたいね。

毛利氏と尼子氏が覇権を競って争ったお城として多くの書物にでてくるよね。

史実を扱ったと思われる古文書の他、村芝居の脚本など創作にも出てくるので、当時からポピュラーな城跡だったかもしれないよね。

面白いのは手間要害への焼討の件。

焼討を仕掛ける武将として少なくとも片山氏が3名出てくるんだけど、全てが別々の場所を焼討しているのよね。

(誤記かもしれないけど所属勢力もまったく逆だったり…)

 

あとは伯耆闘戦記に出てくる当城主の浅野越中守寶光と鎌倉山城主の戸田安房守

伯耆志では合戦と人物のどちらも架空の人物としているけど、そうなると鎌倉山城と岡成城の存在についても

創作という可能性が出てくるのね。

岡成城は4箇所ほどそれらしい場所を見つけたけど…

やっぱり幻の城になっちゃうのかな?

手間要害は杉原盛重との関係は確かと云われる他、それ以外の点に関しては不明な点が多かったけど、

近年の研究で増改築の時期や焼討を受けた場所の特定などが進んでいるようなので今後も目の離せない城跡になるかもね。

 

あ、伯耆国最大の山城ってのは手間要害で間違いはなさそうよ。