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HOME > 伯耆古城図録 ~西伯郡篇~ > 富長城 > 同好会活動日誌

◆富長城【訪問日:2013/05/17】 登城難易度⇒★(易しい)

    【訪問日:2014/09/21】 登城難易度⇒★(易しい)※西の郭跡は地獄級

【 概 略 】

文政元年の因伯古城跡図志には以下の記述が見える。

「富長村古城跡、福頼左衛門尉居城と申伝え、当時社地となり森あり、高さ三間許、前は往来なり。

 近辺竹木あり、後は直ちに海なり。海辺より古城まで高さ二十間許、長さ六十間許、横五十間許」

 

城主として福頼左衛門尉の名が見えるが、福頼氏の本系(福原元秀)の福頼氏、

或いは一門(福頼藤兵衛)の福頼氏、または福頼氏を名乗った在地豪族とも云われている。

 

汗入史網では名和氏の家臣荒松兵庫の居城とされ、船上山の合戦では軍事拠点の一つになったと

推測される。

 

大山寺文書には名和氏没落後の当地は福頼上野守の支配地であったとされ、1524年(大永4年)の

大永の五月崩れまでは福頼氏が当城を治めたと推定されている。

※大永の五月崩れの後、福頼氏は尼子氏に降伏した説と、降らず国外に退去したとする説がある。

 

現在の社殿は1659年(万治2年)に町内の古御堂部落にあったものを移築したとある。

神社本殿には陣屋があったとも伝わり、北東には駒井刑部の駒の馬屋、馬飼場があったと伝わる。

駒井刑部がいつの時代の人物かは不明。

 

廃城年は1524年(大永4年)と推定されているが、神社が移築されるまでは畑にもなっていなかったと

推測されている。

【 遠 景 】

現在は富長神社となっている

富長神社

【 概 要 】

名 称富長城(とみながじょう)

所在地:鳥取県西伯郡大山町富長

築城年:1331年~1334年(元弘年間) ※蒙古襲来に対して築かれたと云われる説。

    1500年(明応年間)頃 ※福頼左衛門尉による増改築とする説。

廃城年:1524年(大永4年)

築城主荒松氏

城 主:名和氏…荒松氏荒松兵庫

    福頼氏…福頼上野守?・福頼左衛門尉

    尼子氏…福頼左衛門尉

    毛利氏…福頼左衛門尉

    所属不明…駒井刑部

文 献:因伯古城跡図志、汗入史網、伯耆民諺記、富長神社由緒書、大山寺文書(応永廿九年)、

    鳥取藩史、汗東神社取調帳、ふるさと古城史⑯(佐々木 謙 著)

形 態:平城・海城

遺 構:郭、土塁、虎口、堀、掘切、空堀、石垣(空堀他、損傷の激しい箇所は地元住民が修復)

現 状:富長神社、山林、道路

種 類:富長町指定文化財(現大山町指定文化財):昭和57年11月19日指定

【縄張り】

富長城略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

―年表―

年号 西暦 出来事

鎌倉時代

不明

在地豪族の居館があったと伝えられる。

元弘年間

1331年

1334年

元弘の乱において名和長年に協力したとされる荒松氏が築城。

名和氏の家臣、荒松兵庫が居城したと云われ、船上山の合戦では

軍事拠点の一つであったとされている。(汗入史網)

これより前、蒙古襲来に対する備えとして築城された説もある。

不明

1336年

以降

1336年(建武3年/延元元年)6月30日、京都で名和長年が討死し、

名和氏が没落すると福頼上野守の所領であったとされる。

(大山寺文書)

明応9年

1500年

11月頃、福頼左衛門尉が築城したと云われるが、城郭や櫓の追加など

城の防衛力強化のための築城(増改築)と推測される。

大永4年

1524年

尼子経久の伯耆侵攻により落城し、そのまま廃城されたと推測される。

福頼左衛門尉は尼子氏の傘下へ移った説、従わず国外へ退去したと

する諸説が残る。

不明

不明

室町時代~戦国期にかけて福頼左衛門尉が居城したと云われる。

不明

不明

現在の神社本殿の場所に陣屋が築かれていたと云われ、

駒井刑部という人物の「駒の馬屋」「馬飼場」があったと伝わる。

左の道は空堀を埋めたと云われる

鳥居右手に一里塚

鳥居左手の道を進むと南側の切岸

「要害坂」「殿様坂」とも云われる

切岸の礎石(後世の修復?)

東堀にかかる橋から鳥居

東堀の北側

東堀(橋上から)

主郭の様子

主郭の様子

主郭の様子

主郭の土盛(駒の馬屋・馬飼場周辺)

主郭の礎石(駒の馬屋・馬飼場周辺)

土塁跡(西側)

物見台跡(櫓跡)

西の平入虎口(伝説では密使門とある)

主郭と西の郭跡を隔てる空堀(西堀)

※部落のゴミ捨て場となり埋まっている

土塁(南側)

西の郭跡(馬場)

―同好会活動日誌―

この富長城は蒙古襲来に備えて築城されたのが始まりとする説が有力で、

海からの攻撃に備えた海城に分類されるお城よ。

あまり詳細は伝わっていないけど、名和氏や福頼氏が支配した頃の記述が

多く見えるわ。

海城?

でも近くに港は無いよ?

船はどこに着けるの~?

当時は手漕ぎの小舟が主流だったから今の港のような波止場が無くても

基本的にはどこにでも着けられたの。(正しくは浜に乗りあげられた…だろうけど)

まさか境港に来るような豪華貨客船のような船が来るとでもお思いかしら?

いや、さすがにそこまで馬鹿じゃないんですけど!

どこにでも着けられたと言っても岩場であれば舟底、もしくは舟体が損傷するし、

海面近くの浜に舟を置いてて戦を終えて戻る頃には舟が流されてサイナラ~。

といった状況が場所によっては起こったみたいなので、安全に舟が乗り付けられる

場所ってのも限られたワケ。

この付近の海岸は砂浜だし、比較的波風も穏やかな湾で舟を着け易い地形でも

あったみたいだから、海岸線を見張るために城が建てられたかもしれないわね。

今回も城跡は神社になっていたけど、前に訪れた佐蛇城とは全然違うね。

五角形の主郭や土塁、櫓跡も一目で判るくらいちゃんと残ってるし。

城の跡地に神社が建った。って感じだよね。

遺構に関しては部分的に修復されているそうだけど、それでも程度が良いわね。

主郭は単に広いだけでなくその形と平坦さから入念な普請が行われた事が判るし、

防衛のため周囲に築かれた土塁や虎口も迫力があって見ごたえ十分ね。

歴史の面では伝承に頼る史料しか見つからないそうで、

お城に関する正確な記録は残されていないみたい。

城と縁のある武将を調べる限りでは、戦国時代というよりは鎌倉~南北朝時代に

名和氏(荒松氏)の居城として舞台となったお城みたいね。

そういえば城主かもしれない、という人物で福頼左衛門尉が出てくるけど、

この人って米子城でも城主してなかった?

福頼元秀のことかな?

福頼元秀の官位も左衛門尉(さえもんのじょう)とされる期間があったから史料に

よっては「福頼左衛門尉」と記述されていた書物が幾つかあったわね。

「左衛門尉」というのは割とポピュラーな官位だったみたいで、武士だけでなく

商工業者も受領名として名乗っていたそうなので同じ名前がよく出てくるわ。

 

ここで出てくる福頼氏は本系か一門の一族、或いは福頼氏を名乗った在地土豪

とする説、武士ではなく受領名として左衛門尉を名乗った人物とする説もあるわ。

 

現時点では米子城主(城番)の福頼元秀とは別人物だろう…という扱いみたいよ。

うーん、同一人物だったら米子城とも縁が繋がって面白かったのに。

しかし、全くの別人ときっぱり否定できない部分もあるのね。

1524年の大永の五月崩れでは尼子氏に降っていたり、その後の尼子氏からの待遇も

福頼元秀と被る記述があったりするので、調べていてかなり面白かったわ。

この辺も今後の史料の発見に期待が膨らむわ。

単に福原元秀福頼元秀みたいに混同されてるだけかもしれないけどね。

米子城の年表と見比べてみると、当時の寿命からは少し怪しいけど見方によっては

同一人物の可能性もあるよね。

三国志の武将で廖元倹という70歳を超えても第一線で戦い抜いた猛者もいるから

福頼元秀もひょっとするわね。

堅実な中堅どころ、って立ち位置も微妙に似てるし。

廖化って三国志演義だと黄巾の乱~蜀滅亡までを生き抜いた武将だよね。

しかも黄巾の乱後は残党の扱いでの登場だから実際は90歳くらい生きた計算。

演義の元倹は作者のご都合で超絶長生きな武将にされてるけど、

彼の元の名は廖淳、関羽が討たれた後の登場で廖化と改名しているので、黄巾残党

として出てくる廖化と、関羽の配下であった廖化とは違う人物とする説もあるわね。

 

蜀書では宗預(字は徳エン)との会話から70歳代で亡くなっているのが判ってるし。

えー、そうなんだ。

ま、こちらの富長城に関する史料での記述もざっくりしてて似たようなものだから、

同一人物と期待を持って調べてみるのも良いのじゃないかな。

それで思いがけない史料に出会えるかも知れないし。

そうだね。

その辺は妄想力で変換してみるよ!

も、妄想はダメだと思うけどさ。。。