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HOME > 伯耆古城図録 > 伯耆古城図録 ~境港市篇~ > 高岡城

◆ 高岡城

【 概 略 】

伯耆志の竹内村の条、廃墟の項では以下の記述が見える。

「高岡城跡と古松三幹あり。往古武良某、此所に居りしと云えり。今村中其の裔あり。(略)伝、境村新八幡宮の下に記す」

 

竹内町薬師講保存会の著した「史実と系図 竹内町四百年史」では境工業高校(現境港総合技術高校)のグラウンド中央付近に城郭が所在したと記される。(グラウンド中央付近の旧字が高岡)

 

城跡付近には五輪塔、五輪塚が多数存在していたようで古老の云い伝えによれば五輪塚から出土した人骨は車で数台分もの量があったと云われる。(現在、五輪塔は大同寺に移され境内に安置されている)

 

五輪塔が移された大同寺境港総合技術高校から南に200メートル程の位置に所在し、かつては北側の旧街道で当城と繋がっていたと伝わる。(現在も途中までは道が残っているそうです)

境内に所在する小磯神社は亀井秀綱の家臣で乳母の夫、小磯又四郎を弔った社とも云われる。

 

周辺の旧字に「岡才仏」「灘才仏」と見えるのは当城の戦い及び乳母ヶ池の戦い(小磯合戦)で多くの亀井方の武士が戦死したとされることへの弔いの気持ちを込めて「才仏」と付けられたと云われる。

【 遠 景 】

城跡と伝わるグラウンド

グラウンドから校舎

北側グラウンドが城跡

【 見どころ 】

城跡の推定地は鳥取県立境港総合技術高校の敷地内です!

城跡が所在したとされる字高岡ですが現在は鳥取県立境港総合技術高校の北側グラウンドになります。

徹底的な改変後で見所もありません。(道路から見学できますが普通のグラウンドです)

ここより南に200mほどの場所に所在する大同寺は小磯合戦の舞台のひとつです。

 

今回の取材及び写真撮影は鳥取県立境港総合技術高校さんのご理解、ご厚意により許可を得て行いました。学校敷地内への無断侵入はもちろん、教員の方や生徒さんに迷惑をかける行為はされないようお願いします。

【 概 要 】

名 称高岡城(たかおかじょう)

別 名:高城(たかしろ)

所在地:鳥取県境港市竹内町字高岡

築城年:不明

廃城年:不明

築城主:不明

城 主:(尼子氏)武良内匠頭(毛利氏)武良内匠頭

形 態:平城・海城

遺 構:不明

現 状境港総合技術高校(グラウンド)

種 類:史跡指定なし

【参考文献】

・伯耆志・伯耆民談記・異説小磯伝記

・境港市史

・史実と系図 竹内町四百年史(竹内町薬師講保存会)    

【城娘】

 

【 縄張図 】

不明

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

不明

不明

永禄9年

1566年

3月20日、当城の城主であった武良内匠頭が自身の還暦祝いと称し主君の亀井秀綱と主従二百余名を当城の陣屋へ招いたとされ、既に毛利方と内通していたと云われる。

鈴掛山城へは毛利方の杉原盛重率いる二千余騎が軍船多数を従え美保湾より攻略に向かっている。

 

鈴掛山城からの早馬で危急を知った亀井秀綱は若君の清若丸と乳母の夫、小磯又四郎を当城に残し境村まで引き返すが鈴掛山城は既に落城とされる。

亀井秀綱武良内匠頭が毛利方へ寝返った事を知らず、清若丸と乳母らを当城へ預け出雲国鈴掛山城へと向かったとしている。)

鈴掛山城の落城を知り、亀井秀綱は境の海岸(一説には現在のJR境港駅周辺)にて無念の切腹をし果てたとされる。

 

当城に残された清若丸と乳母、小磯又四郎武良内匠頭の反乱に遭うが城内に残っていた亀井方の武士達によって城を脱したとされ、現在の大同寺境内にあった小池(乳母ヶ池、小磯池)近くの草むらに潜んでいたが、清若丸が草の穂先で目を突き泣き叫んだところを武良方の兵に発見されると小磯又四郎は「もはやこれまで」と清若丸の首を斬り落とし地中に深く埋めた後、乳母と共に切腹し果てたと伝わる。(乳母ヶ池の戦い、小磯合戦)

 

異説小磯伝記では亀井秀綱らが当城へ赴く途中、一行は現在の境港大港神社付近にあった坂江(境)大明神で祈祷を受けている。

その際に家老の手島四郎五郎は不吉な予感があるとし武良内匠頭からの誘いを断るよう亀井秀綱に諫言を行ったが聞き入れられず、結果として境の海岸で切腹し果てるという記述があり、こちらが史実とも云われる。

【 写 真 】(訪問日:2013/11/06)

城跡から南には大同寺

小磯神社

小磯神社から小磯又四郎を祀った祠

乳母ヶ池(小磯池とも)

小磯又四郎を祀った祠

干上がってしまった乳母ヶ池

乳母の松(手前の松は6代目?)