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HOME > 伯耆古城図録 > 伯耆古城図録 ~東伯郡湯梨浜町篇~ > 旧東伯郡東郷町 > 松崎城

◆ 松崎城

【 概 略 】

築城年は不明だが南条氏の与力であった小森氏の築城と云われる。

関ヶ原の戦いで南条氏が西軍に与したため、1600年(慶長5年)頃に南条氏の改易と合わせて南条氏の居城であった伯耆国羽衣石城や他の支城と同じく廃城になったとされる。

 

享保11年(1726年)の因伯地理志に古城跡として記述が見える。

「山面南、南為大手。高九間(約16メートル)、城内南北四町(約440メートル)、 東西二町五十間(約310メートル)畠地也。有高下也。城中無水、下本丸一町五十間(約200メートル)、有井水多(以下省略)」

 

伯耆民談記では「松ヶ崎城」として記述が見える。

「南条氏か与力の小森和泉守方高が居住せり。方高は毛利方の杉原盛重と内通し南条氏から離反するも進ノ下総免之(進下総守免之)に討たれる。南条氏は進ノ下総免之の忠戦を称え松ヶ崎城を与えた」(伯耆民談記を要約)

 

東郷町誌では「伯耆民談記」と「因伯地理志」からの引用に補足を加え、現状についての記述が見える。

「南条氏の与力が城居したと伝えられる。字「城山」「西の丸」「堀」の地名がある。「城山」と「西の丸」とは数メートル程の段差があったが桜小学校建築のため整地された。「城山」の東に字「堀」があり現在の「堀の内団地」のあたりと考えられる」

 

南条氏の与力であった小森和泉守方高の居城とし「因伯地理志」に記述の「下本丸」を西の丸、「城中無水」との記述から城山東側の堀は空堀であったと推測している。

 

城主であった小森和泉守方高の後は進ノ下総免之が任じられ、関ヶ原の戦いで南条氏が改易されるまで城主を務めたとされるが、陰徳太平記では1581年(天正9年)の吉川元春(馬ノ山砦)と羽柴秀吉(御冠山陣)が対峙した際は小森木工允小森久綱)が在番している。

 

学校跡の敷地の北東端(主郭中央の北側)には整地の際に出土した石垣が積まれている。

元々は南東部から出土したと案内板にあるが、中世末期~近世初期の石垣と考えられている。

 

現地案内板には別名を「亀形ヶ鼻城(きぎょうがさきじょう)」としている。

【 遠 景 】

旧桜小学校

北側から二ノ丸の遠望

西の丸から東郷池の眺め

西端の郭跡(南側)

【 見どころ 】

校舎裏(主郭中央北側)に案内板と石積み

残存する丘陵の西側、主郭と推定されている郭跡には整備された石垣が残ります。

西側と東側の郭跡の西側にも一部、石垣を見ることができます。

北側はJR山陰本線の線路敷設、駅舎の建築。南側は宅地の造成により、殆どの遺構が消滅してしまいました。

線路を挟んだ南西には歴代城主の菩提寺とする体玄寺があり、杉原盛重の実墓があると伯耆志に記述が見えます。

体玄寺も当城域内に所在した施設の一部と考えられます。

【 概 要 】

名 称松崎城(まつざきじょう)

別 名:松ヶ崎城(まつがさきじょう)、亀形ヶ鼻城(きぎょうがさきじょう)

所在地:鳥取県東伯郡湯梨浜町松崎

築城年:不明

廃城年:1600年(慶長5年)頃

築城主小森氏

城 主:(南条氏)小森方高進免之小森久綱(毛利氏)小森方高小森久綱(中村氏)河毛備後守

形 態:丘城

遺 構:郭跡、石垣

現 状:湯梨浜町立さくら工芸品工房(旧桜小学校)、宅地(堀の内団地)

種 類:史跡指定なし

【参考文献】

・伯耆民談記・因伯古城跡図志・陰徳太平記

・因伯地理志(享保11年)

・東郷町誌(昭和62年12月発行:東郷町誌編さん委員会)

【城娘】

 

【 縄張図 】

松崎城略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

不明

不明

天正8年

1580年

天正9年

1581年

慶長5年頃

1600年頃

関ヶ原の戦いで西軍に与した南条氏は改易され、伯耆国羽衣石城が廃城となると当城も廃城と云われる。

【 写 真 】(訪問日:2014/11/01)

西の丸とされる周辺

主郭の様子(グラウンド)

主郭の様子(北側)

主郭北に石垣

あやめ池スポーツセンターへ続く道

あやめ池スポーツセンターグラウンド

主郭直下にある北の郭跡