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HOME > 伯耆古城図録 ~東伯郡篇~ > 松崎城 > 同好会活動日誌

◆松崎城【訪問日:2014/11/01】 登城難易度⇒☆(楽)

【 概 略 】

築城年は不明だが南条氏の与力であった小森氏の築城と云われる。

関ヶ原の戦いで南条氏が西軍に与したため、1600年(慶長5年)頃に南条氏の改易と合わせて

南条氏の居城であった伯耆国羽衣石城や他の支城と同じく廃城になったとされる。

 

享保11年(1726年)の因伯地理志に古城跡として記述が見える。

「山面南、南為大手。高九間(約16メートル)、

 城内南北四町(約440メートル)、 東西二町五十間(約310メートル)畠地也。有高下也。

 城中無水、下本丸一町五十間(約200メートル)、有井水多(以下省略)」

 

伯耆民談記では「松ヶ崎城」として記述が見える。

「南条氏か与力の小森和泉守方高が居住せり。

 方高は毛利方の杉原盛重と内通し南条氏から離反するも進ノ下総免之(進下総守免之)に討たれる。

 南条氏は進ノ下総免之の忠戦を称え松ヶ崎城を与えた」(伯耆民談記を要約)

 

東郷町誌では「伯耆民談記」と「因伯地理志」からの引用に補足を加え、現状についての記述が見える。

「南条氏の与力が城居したと伝えられる。字「城山」「西の丸」「堀」の地名がある。

 「城山」と「西の丸」とは数メートル程の段差があったが桜小学校建築のため整地された。

 「城山」の東に字「堀」があり現在の「堀の内団地」のあたりと考えられる」

 

南条氏の与力であった小森和泉守方高の居城とし「因伯地理志」に記述の「下本丸」を西の丸、

「城中無水」との記述から城山東側の堀は空堀であったと推測している。

 

城主であった小森和泉守方高の後は進ノ下総免之が任じられ、関ヶ原の戦いで南条氏が改易されるまで

城主を務めたとされるが、陰徳太平記では1581年(天正9年)の吉川元春(馬ノ山砦)と

羽柴秀吉(御冠山陣)が対峙した際は小森木工允小森久綱)が在番している。

 

学校跡の敷地の北東端(主郭中央の北側)には整地の際に出土した石垣が積まれている。

元々は南東部から出土したと案内板にあるが、中世末期~近世初期の石垣と考えられている。

 

現地案内板には別名を「亀形ヶ鼻城(きぎょうがさきじょう)」としている。

【 遠 景 】

旧桜小学校

現在は湯梨浜町立さくら工芸品工房

校舎裏(主郭中央北側)に案内板と石積み

【 概 要 】

名 称松崎城(まつざきじょう)

別 名松ヶ崎城(まつがさきじょう)、亀形ヶ鼻城(きぎょうがさきじょう)

所在地:鳥取県東伯郡湯梨浜町松崎

築城年:不明

廃城年:1600年(慶長5年)頃

築城主小森氏

城 主:南条氏…小森方高進免之小森久綱南条氏

    毛利氏…小森方高小森久綱

    中村氏…河毛備後守

文 献:因伯地理志(享保11年)、伯耆民談記、因伯古城跡図志、陰徳太平記、

    東郷町誌(昭和62年12月発行:東郷町誌編さん委員会)

形 態:丘城

遺 構:郭跡、石垣

現 状:湯梨浜町立さくら工芸品工房(旧桜小学校)、宅地(堀の内団地)

種 類:史跡指定なし

【縄張り】

松崎城略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

不明

不明

南条氏の与力であった小森氏の築城と云われる。

天正8年

1580年

9月、城主であった小森方高が毛利方の杉原盛重と内通し南条氏から

離反し、上山砦の進免之を襲撃するも計画は事前に漏れており、

進免之によって小森方高が討ち取られたとされる。

小森方高の所領は進免之へと与えられたとされ、関ヶ原の戦いで

南条氏が改易されるまで進免之が城主であったとされる。

天正9年

1581年

10月25日、因幡国鳥取城が落城し、吉川経家の弔い合戦で

吉川元春(馬ノ山砦)と羽柴秀吉(御冠山陣)が対峙した際、

小森久綱小森木工允)が城主であったとされる。(陰徳太平記)

慶長5年頃

1600年頃

関ヶ原の戦いで西軍に与した南条氏が改易され、

伯耆国羽衣石城が廃城となると併せて当城も廃城されたと云われる。

【 写 真 】

西の丸とされる周辺

本来は本丸と数メートルの段差があったと

云われるが小学校建設によって改変

西の丸周辺から東郷池の眺め

西端の郭跡(南側)

西端の郭跡(北側)

主郭の様子(グラウンド)

主郭の様子(北側)

主郭北に石垣

あやめ池スポーツセンターへ続く道

あやめ池スポーツセンターのグラウンド

主郭直下にある北の郭跡

―同好会活動日誌―

残念ながら遺構は全て消滅。。。と見て良いかもね。

残っていそうなのは主郭西側に二つの郭と主郭直下の北の郭跡

(堀の内団地の西側)くらいかな。

小学校として徹底的に改変されちゃったみたいだからね。。。

遺構は全て破壊されちゃったみたいだけど唯一の見所は校舎北側にひっそりと

積まれた石垣の残骸かな。

この石垣は中世末期~近世初期の物らしいけど…廃城後はここに陣屋を

構えるつもりだったのかしらね?

今となってはどういった形で埋まっていたか知る由もないけど。