トップページへ
お問い合わせフォーム

HOME > 伯耆古城図録 ~西伯郡篇~ > 箆津城 > 同好会活動日誌

◆箆津城

 

【 概 略 】

北側に日本海を見下ろす台地先端に所在する。

東側は切岸状の絶壁、東側から南側には勝田川・黒川が天然の川掘となるため土塁などの防御施設はなく櫓台と思われる郭跡のみがみられる。

地続きとなる西側にのみ空堀、土塁、虎口、土橋など防御施設を配置している。

 

1818年(文政元年)に描かれた因伯古城跡図志では城域について以下の記述が見える。

「箆津村古城跡野原端也。草木有。高十五間、下ハ海、東側川有。西側堀切、海辺ニ少ノ灘付。東西通有。四十五町沖ハ大松有」

 

元寇(1274年(文永11年)の文永の役、1281年(弘安4年)の弘安の役と二度にわたる蒙古襲来)に対する海岸線の防衛拠点として

築城されたことが始まりと推測される一方、鎌倉時代に糟屋重行の持ち城であった説、戦国期に槇氏が築城したとする説など諸説が見える。

 

赤碕町誌には概要として以下の記述が見える。

「城の内(じょうのうち)と呼ばれ堀跡、土塁跡が残る。近くの畑には建物の礎石と思われる石が点在する。

 文政年間(1818年~1829年)の古地図には二町四方の地域を有したとある。

 元弘3年(1333年)の船上山合戦の後、名和氏の軍勢に攻められ焼討された当時の伯耆国守護代糟屋弥次郎の居城、中山城とする説、

 地域狭小で守護の居城としない説がある。

 城跡の近くには「剣が野(つるがの)」「御立山」「カジ山」「牧戸」の地名があり城との結びつきを残す。

 「剣が野」では永世の頃(1504年~1511年)に藤井氏の岡部七郎が討死し、その亡霊が残っていて往来の人を悩ましたと伝えている。

 付近には古墳も散在している。槇の城から約1Km半、箆津部落の東のはずれの墓地(字陣場)に箆津豊後守敦忠の墓がある」

 

姓氏家系大辞典 第三巻では田蓑日記に以下の記述が見えるとされる。

「八橋郡箆津城は箆津豊後(守)の拠る所」

 

また、「箆津」の地名の由来としては以下の記述が見える。

「和名抄、伯耆国八橋郡に箆津郷を收む。後世、野津邑と云ふ。この地より起こりにして退休寺は1354年(正平9年)、箆津敦忠の建立地と」

※退休寺の建立時期については1357年(延文2年)とも。

 

伯耆民談記、伯耆民諺記では城主の槇氏と藤井氏の争いについて以下の記述が見える。

 

伯耆民談記 槇城の項

「安田郷箆津村にあり。槇氏代々居す。永世の頃かとよ、藤井何某か家人、岡辺七郎当城に攻寄せ今云ふ剣ノ野に於て大いに戦ひ討死す。

 其亡霊残りて往来の人を悩す事、暫く累年に及ぶと云へり。

 此野に七の塚あり。是、首塚とも、又、七塚とも云ふ。一つは岡辺七郎か首塚、残る六は従卒の塚と云伝ふ。

 剣ノ野以西の金谷村にある大地を金谷野とも云ふ。此野は槇、藤井、多年の戦場にして千戈をちりはめし処なる故、剣ノ野と称すかや。

 (中略)又、件の藤井某は今の信州上田の城主、松平伊賀守忠国の先祖なるか。是、本姓藤井氏なり。長臣代々岡辺七郎と云ふ。今は九郎兵衛と云へり」

 

伯耆民談記 御立山の項

「東西半道、南北一里余許り、平々たる広野なり。野中に領主の立山(禁伐林)あり。大なる松原にて南北三丁許り。東西十四丁に足る」

 

新修中山町誌上巻では築城年不明、廃城年を天正年間(1573年~1591年)と推測し、槇氏代々の居城とする説を伝承の域を出ないとしている。

【 遠 景 】

南(国道9号)からの遠望

北西(日本海)からの遠望

南東(黒川)からの遠望

【 縄張図 】

箆津城略測

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 概 要 】

名 称箆津城(のつじょう)

別 名:槇城(まきじょう)

所在地:鳥取県東伯郡琴浦町箆津

築城年:不明

廃城年:天正年間(1573年~1591年)※推定

築城主槇氏

城 主:六波羅探題…糟屋重行

    名和氏…赤坂幸清箆津敦忠

    不明…槇氏

文 献:伯耆民談記、伯耆民諺記、因伯古城跡図志 伯耆国(1818年 文政元年)、田蓑日記、

    赤碕町誌(昭和49年11月 赤碕町誌編纂委員会)、

    新修 中山町誌 上巻(平成21年3月 中山町誌編集委員会) 、

    姓氏家系大辞典 第三巻 ナーワ(昭和38年11月:角川書店 太田亮 著)、

    日本歴史地名大系第32巻 鳥取県の地名(1992年10月 平凡社)

形 態:丘城・海城

遺 構:郭跡、切岸、土塁、空堀、虎口、土橋、櫓台

現 状:畑地、原野

種 類:琴浦町指定文化財(昭和50年6月2日)※赤崎町指定文化財として登録

登城難易度⇒★★(普通)

【 地 図 】 東伯郡内の城跡

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

文永年間

弘安年間

不明

1274年(文永11年)の文永の役、1281年(弘安4年)の弘安の役、二度にわたる蒙古襲来の脅威から、

元寇に対する海岸線の防衛拠点として築城された城砦群の一つと考えられている。

元弘3年/正慶2年

1333年

糟屋重行、船上山の戦いに参戦し敗北。伯耆国から逃れたとされる。

糟屋重行は後に近江国で佐々木清高らと共に自害したとある。

この頃、赤坂幸清箆津豊後守が領有したと考えられる。

延文4年/正平14年

1359年

6月19日(旧暦5月23日)、箆津豊後守が勝田川の戦いで戦死とある。

以後、槇氏が領有したと考えられる。

永世年間

1504年~1511年

長年、槇氏と藤井氏が争っていたとされる。

剣が野の合戦で藤井氏の家臣、岡部七郎が討死したとされる。

天正年間 1573年~1591年 天正年間中の廃城と推測されている。

【 写 真 】(訪問日:2016/01/16)

案内板と登城口(北西の虎口)

主郭の様子

主郭の様子

主郭の様子と日本海

主郭の様子と日本海

主郭から北西の土塁

南西の空堀と土塁

北西の土塁と空堀

北西の土塁と空堀は道路で分断

道路を北に越えた空堀

北の土塁

北の土塁

北の土塁の藪中には石碑

北の土塁周辺から日本海

北の郭跡中程の腰郭跡

北東の先端の郭跡

東の帯郭跡

南の土塁(畑の境界?)

南の土塁(畑の境界?)

南の櫓台

南の櫓台

南西の虎口

南西の虎口

西の土塁

西の土塁

日本海の眺め

麓には社

麓の祠

古戦場「剣が野」

【同好会活動日誌】

現地はほとんど畑(刈り取られた切株から察するにとうもろこし畑かな?)にされてしまっているので…

唯一の見所は西側に展開する空堀と土塁だけかな?

 

一応、南側に黒川を見張ったと思われる櫓台のような高まりがあったけど、藪に囲まれてるから普通じゃ見えないわね。

歴史を調べていると”中山城”の可能性として石井垣城と比べられる城跡みたいだね。

規模だけを見ると石井垣城には到底及ばないけど、城跡とされる台地先端だけじゃなくて西側の平坦地(剣が野)も

城域と考えたら小さくはないお城だよね。

北の日本海、南から東へ流れる黒川を水路として海運を行っていた可能性は十分考えられるわね。

 

現状の縄張を見てると単郭で西側に防御施設と言っても空堀一条と土塁一本だけと防衛力はあまり高そうな印象がしないのに

槇氏と藤井氏が長い間争っても藤井方が「剣が野」までしか攻め込めなかったことを考えると西側には今は失われた防御施設が

あったかも知れないわね。

歴史も石井垣城と混同されたり主郭は畑にされてしまって面白みがあまりなかったりと不遇なお城跡だけど、

琴浦町(旧赤碕町)の町指定文化財なので気楽に訪れることができる城跡だったりしますよ。

 

…しっかし箆津城(とうもろこし畑)といい、赤碕台場(工場)といい、旧赤碕町の史跡指定されてる場所って

扱いが雑なんだよね。

赤碕台場は平成28年3月1日付で国指定史跡に格上されたみたいだけど、これを期に箆津城も整備してもらえると嬉しいね~