トップページへ
お問い合わせフォーム

HOME > 伯耆古城図録 ~東伯郡篇~ > 瀬戸城 > 同好会活動日誌

◆瀬戸城

 

【 概 略 】

現在の金刀比羅宮の鎮座する山が”要害山”或いは”城山”と呼ばれ、戦国時代には穐近氏が城主であったと伝わる。(大誠村郷土史)

穐近氏は井谷氏の祖先との記述も見えるが双方とも説得力に乏しく断定は出来ないとある。(大栄町誌)

 

明治初めの頃、金刀比羅宮を勧請した際に本丸周辺の遺構は破壊されたと云われる。(金刀比羅宮の宮司さんの話)

瀬戸神社所蔵の絵図「瀬戸城古図」には城と城下集落の規模についての記述が見える。

城の規模

「本丸二十四間四方、高さ二十四間、周囲八十六間、南堀二十六間(幅二間、深さ六間)」

古図には南側に堀の存在が示され、現在も堀の遺構と思われる溝跡が確認できる。

(金刀比羅宮勧請の改変が何処まで及んだか正確な伝えがないため後世の改変の可能性もある)

 

新修鳥取県神社誌の瀬戸神社の条には以下の記述が見える。

「大永年間(1521年~28年)の兵火により文書等焼失した。もとは飯ノ山(現在の御旅所)に鎮座していた。

 保元年間(1156年~59年)、要害山城主秋近氏(正しくは穐近氏)が城鎮護の神として現社地、湊山に奉遷したと伝える」

 

瀬戸神社は城郭鎮護の為に勧請されたことから、湊山の神社境内も城域であると考えられる。

境内には特に防衛用の設備は見当たらないが南側が切岸状になっており、瀬戸城本丸と同じく南側に堀を配し防御を固めていた可能性も考えられる。

 

北側、東側は由良川を利用した天然の川掘、西側は急峻な切岸(高低差約46m)、南側には幅約3.6m、深さ約11mの空堀を配した

堅牢な城郭であったと考えられるが、「大永年間の兵火」から1524年(大永4年)の大永の五月崩れによって落城したと考えられる。

【 遠 景 】

要害山の遠望(東側)

本丸の遠望(北側)

瀬戸神社境内

【 概 要 】

名 称瀬戸城(せとじょう)

別 名要害山城 (ようがいやまじょう)

所在地:鳥取県東伯郡北栄町瀬戸

築城年:不明

廃城年:不明 ※1524年(大永4年)頃?

築城主:不明

城 主穐近氏井谷氏

文 献:大栄町誌(昭和55年3月発行:大栄町合併20周年記念出版 大栄町誌編さん委員会)、瀬戸城古図(瀬戸神社蔵)郷土史概況(橋本三郎)、

    新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ(平成24年6月発行:鳥取県神社誌編纂委員会)、大誠村郷土史(平成21年3月:橋本三郎)、

    八橋郡瀬戸村要害山鎮座産神国司大明神棟札(写)、由良川物語(平成14年3月:由良川を歌う会 吉松清次)、

    日本歴史地名大系第32巻 鳥取県の地名(1992年10月 平凡社)

形 態:山城

遺 構:郭跡、帯郭、腰郭、切岸、竪掘、横掘、堀切、土塁

現 状:金刀比羅宮、瀬戸神社、畑地、荒地、住宅地

種 類:史跡指定なし

登城難易度⇒★★(易しい)

【縄張図】

存在せず

【 地 図 】 東伯郡内の城跡

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

保元年間

1156年

1159年

城主であった穐近氏が城鎮護のため瀬戸神社を勧請したとある。(新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ)

築城年は不明だが、瀬戸神社を城鎮護のため勧請したことからこれより以前に城は存在していたと考えられる。

大永年間

1521年

1528年

大永年間(1521年~28年)の兵火により文書等焼失したと記述が見えることから大永の五月崩れにより

落城したと考えられる。(新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ)

【 写 真 】(訪問日:2015/05/17)

金刀比羅宮への参道

本丸から1段下がった南(西)の郭跡の堀跡

本丸から1段下がった南(西)の郭跡

南(西)の郭跡の堀跡(正面に土塁)

南(西)の郭跡の竪掘

登城道右手の土塁

南(東)の郭跡(堀状の遺構あり)

南(東)の郭跡(堀状の遺構あり)

金刀比羅宮(主郭)

本丸には金刀比羅宮(主郭)

主郭の様子

主郭西側の土塁

主郭から北側の眺め

主郭から東側の眺め

主郭から北一郭

北の帯郭

北の帯郭

瀬戸神社

瀬戸神社南側の切り通し(堀跡?)

―同好会活動日誌―

大栄町誌と鳥取県神社誌の他、地元郷土史の多くに名前が出てくる城跡ね。

一部には信憑性の低い記述もあるようだけど、金刀比羅宮の宮司さんのお話だと明治初めに金刀比羅宮が勧請される前、

確かに城跡が所在したと伝わっているみたいよ。

本丸のあった主郭は徹底的に改変されちゃったみたいで、「ここに城があった」程度しか伝わっていないみたいだね。

 

城主に関しても一部、著者の主観や推測が混じっているようで断言ができるほどの資料はないみたいだね。

城主に関しては大永年間、兵火に遭ったという記述から、恐らく山名氏、或いは南条氏、

もしかすると独立勢力であった可能性もあるけど、そのあたりの資料や情報も見つけられなかったわね。

城構えは「要害」を称するに相応しい縄張りを体験できて見ごたえもある上に割と手軽に見て回る事もできるので

マイナーだけどおススメできる城跡かな。