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HOME > 伯耆古城図録 ~東伯郡篇~ > 馬ノ山砦 > 同好会活動日誌

◆馬ノ山砦【訪問日:2014/11/01】 登城難易度⇒☆☆(易しい)

【 概 略 】

16世紀の築城と云われるが城域には多くの古墳が存在し、16世紀以前の築城も考えられる。

戦国期には毛利氏から南条氏の臣下へと移った山名氏豊の居城であったと伝わる。

 

1580年(天正8年)の長和田・長瀬川の戦い以降は毛利方の領有となり、吉川元春吉川元長

代わる代わる居城したと云われ、南条元周に敗れた吉川元長が当砦に退却したなど多くの記述が見える。

吉川元長が駐屯していた伯耆国茶臼山城と連携して運用をされたともあり、南条氏と毛利氏による

東伯耆の覇権争いでは毛利方の拠点として馬ノ山に本陣が置かれていたと云われる。

 

羽衣石南条記では駒山城として記述が見え、主郭(本陣)の所在地を駒山、或いは馬山としている。

当砦を本城として北は日本海、東を白石村の砦(伯耆国白石城)、西を茶臼山の要害(伯耆国茶臼山城

を以って陣容を構えたとされる。

「橋津馬ノ山を本陣とし、北の海には数百艘の兵船を浮かべた。

 東には白石村に砦を構え吉川彦七郎元景を置き、西は茶臼山に要害を構えて毛利民部太輔元経

 守らせた」(羽衣石南条記「吉川駿河守駒山在城の事」)

信長公記の「伯耆国南条表発向の事」の条や「陰徳太平記」にもほぼ同様の記述が見えるが、

「陰徳太平記」では吉川元春の豪胆さを際立たせる記述が目立つ。

 

伯耆民談記では南北に城門跡の存在を記している。

「羽合御橋津村にあり、其形円平にして草山なり。

 右は根岳として険峻青巌の幽谷にして、前に東郷の湖水渺々たり。

 天正の昔、芸州の大将吉川元春此山に砦を築き、吉川元長と代わる代わる在陣した。

 山頂は南北三町余り、東西二町余り有るべし。四方掻き上げ六十七尺の高さにして南北に門跡あり。

 掻き上げの極中に大きな窟あり。往古よりある岩屋なりと伝えり」

 

1581年(天正9年)10月25日、因幡国鳥取城の落城後、毛利方は吉川経家弔い合戦として吉川元春

当砦(伯耆国茶臼山城とも)に、織田方は南条氏支援と称し更なる勢力の拡大を目論んだ羽柴秀吉

御冠山の陣に布陣し対峙したとされる。(馬ノ山の対峙、馬ノ山の対陣)

 

毛利方は5千~6千騎、対する織田方は3万~6万騎と約10倍以上の兵力差があったとされるが、

弔い合戦に臨む毛利方将兵の士気は高く、更に吉川元春は橋津川に架かる全ての橋を落とし、

日本海上の兵船を全て陸に揚げ、櫓も全て折り捨て芸州(出雲)への退路を断つと背水の陣を敷いた。

また、吉川元春の陣中では大雪の中で炉を焚き、諸将達と鮭を肴に粕酒をすすりながら談笑し、

高いびきをかいて寝ていたという。

吉川元春の陣容、陣内での振舞い、大雪による遠征側の不利を察知した羽柴秀吉は戦を始めても

味方の被害が甚大になるだけと考え、吉川元春と直接刃を交えることなく播州へと撤兵している。

(全く戦わなかったのではなく、若干の小競り合いがあったと考えられている)

現地案内板では”吉川元春羽柴秀吉が仮に戦っていれば日本の歴史が変わっていた”と結んでいる。

 

「馬山」の由来は鎌倉時代の絵巻物に当地で馬の放牧がされていたことである、としている。

【 遠 景 】

主郭にはハワイ風土記記念館

現地の案内板には古墳の紹介のみ

【 概 要 】

名 称馬ノ山砦/馬之山砦/馬山砦(うまのやまとりで)

別 名駒山城(こまやまじょう)

所在地:鳥取県東伯郡湯梨浜町大字上橋津

築城年:16世紀(1500年代)

廃城年:1581年(天正9年)頃 ※吉川元春の退陣に伴っての廃城と云われる

築城主:不明

城 主:南条氏…山名氏豊

    毛利氏…山名氏豊吉川元春吉川元長

文 献:伯耆民談記、伯耆民諺記、陰徳太平記、因伯古城跡図志、吉川家文書、毛利家文書、信長公記

    羽衣石南条記(巻ノ下)※大正4年10月5日発行の活字版

    東郷町誌(昭和62年12月発行:東郷町誌編さん委員会)

形 態:丘城

遺 構:郭跡、土塁、切岸(但し、ハワイ風土記記念館などの建設によって多くの改変が考えられる)

現 状:ハワイ風土記記念館、山林、畑地、公園(遊歩道)、原野

種 類:史跡指定なし

【縄張り】

馬ノ山砦略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

天正年間

不明

南条氏の家臣、山名氏豊の居城であったと云われる。

天正8年

1580年

8月、長和田・長瀬川の戦い(毛利氏×南条氏)に敗北した

山名氏豊は敗走の途中で落人狩りによって殺害されたとあり、

以降は毛利方の所領となったと考えられる。

 

9月、伯耆国松崎城の城主であった小森方高が馬ノ山の杉原盛重

内通したとある。(羽衣石南条記)

天正9年

1581年

10月25日、因幡国鳥取城が落城。吉川経家の弔い合戦で

吉川元春(馬ノ山砦※)と羽柴秀吉(御冠山陣)が対峙したとある。

(馬ノ山の対峙、馬ノ山の対陣)

吉川元春が本陣を敷いたのは伯耆国茶臼山城とする説もある。

 

11月8日、羽柴秀吉が播州姫路へと帰陣とあり、程なくして

吉川元春も出雲(芸州)へ撤収したとされる(信長公紀)

天正9年頃

1581年頃

吉川元春の退陣に伴って廃城されたと云われる。

【 写 真 】

公園内に唯一の城跡遺構の案内板

案内板後方の土塁

主郭のハワイ風土記記念館

遺構は徹底的に破壊されたと考えられる

主郭から北側へ一段下の郭跡

主郭から北側へ二段下の郭跡

主郭南側の腰郭

北側の郭跡の遠望

北側の郭跡(3段の連郭或いは畑地)

縄張北端の8号墳

縄張中央部の切岸

縄張中央部の郭跡

道路脇の公園部が土塁跡(中央から南へ)

土塁跡(南側)

土塁跡(南側)

土塁跡(南側)

土塁跡(南側)と9号墳

土塁跡(南側)

9号墳の石室

―同好会活動日誌―

縄張図には土塁が図示されているけど…徹底的に改変を受けてると見て

間違いなさそうね。

歩いてみると判るけど、城跡と言うよりは古墳をメインにした公園って感じ。

城跡を目当てに来られる人には少し物足りないかもしれないわね。

整備されてる(されすぎてる?)から歩き易いのは助かるよ。

古墳が好きな人にはたまらない場所かも。

遺構の状態に関しては少々残念だけど、歴史的な出来事としては鳥取城落城後、

吉川経家公の弔い合戦で毛利方の豪将、吉川元春と織田方の羽柴秀吉が対峙した

「馬ノ山の対峙」の話が有名かな。

陰徳太平記、羽衣石南条記、信長公記では合戦についての記述がそれぞれの

勢力からの視点で書かれているので読み比べてみると面白いかも。

 

あ、主郭にそびえるハワイ風土記記念館には少しだけど戦国期の砦についての

説明があるけど陰徳太平記や伯耆民談記からの抜粋程度だったので、新しい

情報を求めてもちょっと無駄足になるかも。

(個人的に目新しい話は大将瓢箪の縁起くらいかな)

 

地元の伝承とかをもう少し集めるといい展示になると思うけどね。