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◆八橋城【訪問日:2013/09/14】 登城難易度⇒★☆☆☆☆(易)

伯耆民談記では本丸と二ノ丸が存在し、南の端に井戸、周囲に堀を巡らせ、東に大手門があったと

記述されている。また、二ノ丸の下(現在の八橋駅舎周辺)にも郭跡があったとされる。

 

JR八橋駅を含む西側丘陵が城郭であったとされるが、山陰本線敷設工事によって主郭一部を含む

南側の遺構は分断され、その多くが消滅してしまったとされる。

登城口の左側が主郭、ニノ郭へと続く登城道。右側の脇道からは主郭の石垣を見ることができる。

主郭、ニノ郭への登城道の脇にはニノ郭の石垣や礎石の残骸が点在している。

整った石垣跡は市橋長勝が改修を施したものとも云われる。

ニノ郭(二ノ丸)には郭跡と八橋城山稲荷神社が鎮座。

八橋城山稲荷神社が鎮座する郭跡は櫓台など別の役割を持った郭跡であったとする見方も。

ニノ郭の南側~東側にかけて土塁のような土盛も見えるが、これは線路敷設時の改変と考えられる。

ニノ郭から西へ向かうと主郭へと続く登城道があり、神社の鎮座する郭跡の麓に礎石の残骸が見える。

碑のある郭跡が主郭とされるが、そのほとんどは削り取られている上に碑の存在感が圧倒的なため、

元々の面積が少ない上に碑の圧迫感によって極端に狭く感じる。

ニノ郭や神社の鎮座する郭跡の位置から主郭は削り取られた南側に広く存在したと考えられる。

主郭跡に建つ「酒井片桐飛行殉難碑」は昭和7年に起きた飛行機墜落で亡くなった新聞社の飛行士、

酒井憲次郎片桐庄平を偲んで建てられた慰霊塔である。

「酒井片桐」という武将が居た訳ではなく、当城とは全く関係無い。

主郭のほとんどが削り取られている上、碑の建設で主郭の遺構も改変を受けているため、

城跡としての当城一番の見所は主郭北側の石垣。

登城口の右側にある脇道を進むと大変状態の良い石垣を見ることができる。

JR八橋駅のホームからもニノ郭石垣の礎石が見える。(最後の写真)

(おまけ)主郭からの眺めと登城道の途中にあった謎の彫刻。

―概 要―

名 称:八橋城(やばせ-じょう)

別 名:大江城(おおえ-じょう)、八橋陣屋(やばせ-じんや)

築城年:不明(室町時代?)

所在地:鳥取県東伯郡琴浦町八橋

築城主:行松正盛

城 主:伯耆山名氏…行松正盛行松氏

    尼子氏…福山茲正吉田左京亮吉田源四郎

    毛利氏…杉原盛重杉原景盛

    南条氏…南条元信

    中村氏…中村一栄中村栄忠

    市橋氏…市橋長勝

    池田氏…池田長明津田元匡津田氏

文 献:陰徳太平記、吉川家文書、伯耆志、伯耆民談記、東伯町誌、東郷町誌

形 態:平山城

遺 構:郭跡、石垣、礎石

現 状:JR八橋駅、八橋城山稲荷神社、酒井片桐飛行殉難碑、公園、山林、原野

種 類:東伯町指定史跡(現琴浦町指定史跡):昭和49年5月1日指定

地 図:

―年表―

年号 西暦 出来事

室町時代

不明

伯耆山名氏の配下、行松正盛によって築城され、

行松氏の居城であったとされる。

大永4年

1524年

大永の五月崩れによって落城し尼子領となった。

吉田左京亮が居城し、西伯耆の3郡を支配したとされる。

天文年間

1532年

1555年

吉田左京亮が播磨国で毛利方に組した三村家親に討たれると

子の吉田源四郎が家督を継ぎ、当城の城主となった。

永禄7年

1564年

吉田源四郎が伯耆国法勝寺城へ侵攻してきた三村家親の迎撃に出陣。

永禄8年

1565年

毛利家の家臣、香川光景が伯耆国不動ヶ嶽を攻略すると続いて

当城の攻撃を行った。

劣勢極まった城主の吉田源四郎は城兵200余騎を率いて毛利軍の

包囲網を破り、尼子氏の拠点である出雲国月山富田城へ落ち延びた。

当城は毛利方の領有となり吉川家の家臣、杉原盛重が城主となった。

天正8年

1580年

4月24日、南条元続南条元清兄弟が二度に渡って当城を攻撃。

天正9年

1581年

杉原盛重が病没。

二男の杉原景盛が城主として在城するが、後に兄の杉原元盛を謀殺。

伯耆国尾高城、更には伯耆国佐陀城へと移った。

天正12年

1584年

春頃、南条元続が八橋より赤崎原へ出陣とある。

毛利氏と豊臣氏の「京芸和睦」で当城を南条氏が回復と考えられる。

慶長5年

1600年

関ヶ原の戦いにおいて西軍に所属した南条氏は改易され滅亡。

伯耆国は中村一忠の所領となり、叔父の中村一栄が3万石を知行し

城主となった。

慶長9年

1604年

中村一栄が病没。家督を継いだ中村栄忠が城主となるが、

後に伯耆国打吹城へと移った。

慶長14年

1609年

中村一忠が病没すると中村家は嫡男無しとされ断絶。

美濃国今尾より市橋長勝が城主として封じられた。

元和3年

1617年

鳥取藩主、池田光政の所領となり、池田長明が居城した。

1615年(元和元年)に江戸幕府より一国一城令が発せられており、

この年に廃城となった。

寛永9年

1632年

鳥取藩主、池田光仲の所領となり、家老の津田元匡が陣屋を設けると

自分手政治によって八橋の地を治めた。

その後、明治まで津田氏による統治が続いた。

―同好会活動日誌―

鉄道で真っ二つ【2013/11/10更新】