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HOME > 伯耆古城図録 ~東伯郡篇~ > 鳥取藩台場 由良台場 > 同好会活動日誌

◆鳥取藩台場 由良台場【訪問日:2014/12/06】 登城難易度⇒☆(楽)

【 概 略 】

1863年(文久3年)、鳥取藩主であった池田慶徳の命により鳥取藩内に8箇所建造された砲台場の一つ。

鳥取藩内では最初に建造の着手が行われた台場であり、高島流砲術の流祖、高島秋帆より西洋砲術を

学んだ武信潤太郎の総指揮による建造と云われ、1863年(文久3年)6月に着工し、

翌年の1864年(文久4年)2月の完成(砲台場のみ1863年(文久3年)8月の完成とも)とされる。

 

外国船からの脅威に備えた日本海の海防が主たる目的とされるが、周辺に所在する重要施設であった

「由良湊」や「藩倉」の防衛も兼ねていたとされる。

 

形状は四角形から北側の角を落として六角形にすることで日本海側に対する幅広い射角を確保している。

(フランス式の築城技術が多く取り入れられたとされる)

設置された砲台は鉄造60斤砲、鉄造24斤砲、鉄造15斤砲、鉄造5寸径砲の各1門、計4門とされるが、

当初の計画では3挺だったことが池田家の文書に記されている。

(池田慶徳公御伝記の慶応3年8月21日の条)

大栄町誌では大砲8門、所在する北栄町によるの紹介では大砲7門と記載されている。

 

周囲を囲む土塁には土(粘土)と砂のみが使われ、敢えて石や岩を全く使わない造りとなっている。

砲弾の弾着の際、破裂によって起こる石片・岩片の飛散による被害を最小限に抑えられること、

当時の弾丸は球状が主流であり、砂は球状の弾丸の貫通を抑える効果が期待されたことから

外来船との砲撃戦を想定して考え抜かれた設計となっている。

また、陸上からの攻撃に対しても南側の虎口に蔀土塁(しとみどるい)を配置するなど、

簡易ながらも備えがあったことが伺える。

 

土塁の盛り土は台場東側の畑から、粘土は鍛治山や清水山、芝は干目野から「もっこ」という

二人一組で担いで運ぶ運搬具で人力による陸送が行われたとされる。

 

他の台場と同様に財政難に陥っていた鳥取藩からの予算は組まれていなかったとされ、

豪商の武信佐五右衛門(大山まで他人の土地を踏まずに行けたと云われる大地主)による動員や

由良宿の篤志家など大・中庄屋、豪農からの融資や献金により資金は賄われ建造が進められたとされる。

 

使役された人員は旧久米郡の農民、旧八橋郡の一部の農民のべ75000~80000人程とされ、

男女を問わず健康な16歳~50歳までの人員が奉仕(ほぼ無給)という形で台場建造に関わったとあり、

無給とあるが強制的な徴用ではなく、国土防衛(ひいては郷土の防衛)と信じ、

進んで作業に従事したものであり給金を当てにする者はいなかったと伝わる。

 

これには別角度からの推論も有り、台場建造前に武信佐五右衛門武信潤太郎が外夷の脅威を誇大し、

限定的な部分のみを地元の住民に説く事で必要以上の恐怖心を煽ったから成し得たとする指摘も見える。

(農民達の自発的な献身ではないとする推測)

但し、長崎で砲術を学んでいた武信潤太郎の耳にも当時の西欧諸国による植民地拡大運営の情勢が

入っていた事は考えられるため、地元の農民へ説いた外夷の脅威もいたずらに恐怖心を与えるだけの

目的ではなかったことも推測できる。

武信家は私財を投じて台場建造と共に六尾反射炉で50門を超える大砲を鋳造しており、

鳥取藩の他にも備前藩、浜田藩、萩藩などから注文を受けたとされる。

しかし、代金のほとんどは支払われる事が無かったとされ、最終的に倒産してしまったと云われる。

 

当台場での建造事業はモデルケースとなり、藩内の他の台場でも地元の豪農や豪商、大・中庄屋からの

献金と農民の奉仕によって鳥取藩は出資することなく8箇所の台場を築き上げている。

 

建造後の管理は地元へと委任され、組織された農兵隊により交代で管理・防備が行われたと云われる。

また、台場内部の郭跡では農兵隊の訓練が行われていたとも伝わる。

 

建造後、実戦で使用されること無く明治維新を迎えると陸軍省の管轄に移管され、

1925年(大正14年)8月に由良町へ払い下げられたとある。

【 遠 景 】

南側の台場入口(蔀土塁と虎口)

北東側からの遠景

【 概 要 】

名 称鳥取藩台場 由良台場(とっとりはんだいば ゆらだいば)

所在地:鳥取県東伯郡北栄町由良宿

築城年:1863年(文久3年)

築城主武信佐五右衛門武信潤太郎

城 主武信佐五右衛門

文 献:鳥取藩史(加路台場略図控之分ほか)、在方諸事控(明治2年3月27日条ほか)、

    贈従一位池田慶徳公御伝記(文久3年8月4日条ほか)、

    武信家文書(「海岸備要」「調和薬量比例算法」)、

    大栄町誌(昭和55年3月31日 大栄町誌編さん委員会)

形 態:砲台場

遺 構:郭跡、土塁、目隠し土塁(蔀土塁)、櫓台(高見台跡)

武 装:六尾反射炉製 砲台4門(鉄造60斤砲、鉄造24斤砲、鉄造15斤砲、鉄造5寸径砲 各1門)

    ※非現存

現 状:公園

種 類:史跡(国指定文化財:昭和63年7月27日指定)

【縄張り】

鳥取藩台場 由良台場略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

安政5年

1858年

年末頃、砲術家の武宮丹治が御台場築立掛に任命とある。

文久3年

1863年

鳥取藩主、池田慶徳の命により鳥取藩内の各地で台場の建造が始まる。

6月、瀬戸村の豪商、武信佐五右衛門の養子、武信潤太郎の総指揮に

よって当台場の建造が着手されたとある。

8月、砲台場のみ完成したとする説がある。

文久4年

1864年

2月に完成とある。

守備責任者として武信佐五右衛門が任命されている。

大正14年

1925年

8月、陸軍省から由良町へ払い下げられたとある。

【 写 真 】

虎口から郭跡の様子

郭跡から虎口と蔀土塁

虎口から郭跡内

西側の土塁上からの眺め

虎口から東側の郭跡内

虎口から西側の郭跡内

西側土塁上から郭跡内

東側土塁上から郭跡内

西側の土塁と左手に由良川

東側の土塁

北側の土塁

北側の土塁から国道9号を挟んで日本海

砲台跡の遠景(北側)

砲台跡(北東)

台場公園の大砲(レプリカ)

台場公園の大砲(レプリカ)

―同好会活動日誌―

鳥取県内で一番見ごたえのある台場はこの由良台場でしょうね。

ほぼ原形のままを留めているみたいで交通のアクセスも解りやすい、

駐車場も完備、遺構の確認も素人さんが見ても一目瞭然。

是非とも伯耆国お台場巡りの締めに訪れて欲しい場所よ。

ちなみに由良台場の東隣にあるお台場公園も土塁のような土盛で囲まれてて、

こちらをお台場と勘違いする人がいるみたいだね。

大砲のレプリカもあるし…

台場の歴史については数字など微妙に詳細がはっきりしない点もあるけど、

資料の探し方が悪いのかしらね。

 

台場のスペック(広さや外周・比高)についても掲載される資料ごとに

数値が違っていたり、設置された砲台数も案内板などでは4門、大栄町誌には8門、

北栄町の台場紹介HPでは4門と7門(ひょっとしてテンキーで4の打ち間違い?)

といった具合にバラバラなのよね。

ま、座学は好きな人に突き詰めてもらうとして、伯耆国のお台場を巡るなら

道順は西からだと(東からは逆)

境台場淀江台場赤碕台場⇒由良台場⇒橋津台場

このルートが時間的にも一番効率が良いかな。1日あれば制覇できるし。

お台場だけじゃ物足りない!って方には近くに某名探偵の記念館もあるので、

”お台場を見たついで”に回ってみるのも有りかもね。