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◆ 飯山城

【 概 略 】

1467年(応仁元年)頃、伯耆国守護山名教之の命により家臣の山名宗幸が飯之山に築いた砦が始まりとされ、中海(深浦)の港や続く水路を見張る海城とも云われる。

室町時代中頃~1460年代後半頃は出雲国(夜見島、弓ヶ浜方面の海路)を意識した伯耆国側の要衝の地と推定されている。

 

通説では伯耆国米子城の前身とされ、後に現在の国道9号を挟んだ西側の湊山(豪円が名付けるまでは飯山)に近世城郭として米子城の築城が吉川氏の命により開始されると東の出丸として城域に取り込まれたことが吉川広家自筆の覚書に見える。

 

吉川広家自筆覚書(吉川家文書:天正19年)

「一、東之丸石垣併門矢蔵事、付あたらしく可申付事」

 

米子城築城の際、豪円がお立山を湊山と名付けるまでは現在の飯山、湊山、出山、丸山をまとめて“飯山”としていたことから当城が飯山の何処に所在していたのかは不明ながら幾度も戦が行われたことは記述に見える。

 

1471年(文明3年)8月、境松合戦に敗れた伯耆山名氏の軍勢が当城へ退却、山名之定が城砦の防衛指揮を采ったと云われる。

この頃は戦線が膠着し、辛うじて伯耆山名氏が領有していたと推測される。

 

1524年(大永4年)、尼子方の西伯耆侵攻(大永の五月崩れ)により落城した城の一つに名が見え、毛利氏が台頭するまでの暫くの間は尼子氏の領有となる。

 

1562年(永禄5年)、毛利方の攻撃により落城。毛利方に与した伯耆山名氏の山名秀之が城主に任じられている。

 

1569年(永禄12年)、尼子方の山中幸盛の調略により山名之玄が毛利方から離反、山名之玄が城主となり山名秀之は自害とある。

 

1570年(元亀元年)、毛利方の武将、吉川元春に攻められ落城。山名之玄は反逆の罪を咎められ自害。山中幸盛尼子勝久は残党をまとめ播州へ遁走とあることから山名之玄を捨て駒のように見捨て伯耆脱出を図ったことが伺える。

一部の郷土史では山名之玄山名之益としており、尼子残党に味方し自害するまでほぼ同様の記述が見える。

 

1571年(元亀2年)3月中旬、尼子残党の猛将羽倉元陰の率いる五百余名が米子城下を襲撃。城下に火を放ち町を焼くと消火作業に気を取られていた城番の福原元秀羽倉元陰によって討ち取られたとある。

城番を福頼元秀とする記述では羽倉元陰に敵わず城内へ退却すると堅く門を閉ざして応戦せず討ち取られることはなかった。

 

福原元秀に代わり伯耆国戸上城の城主、福頼元秀が城番に任命されている。

一説にはこの襲撃の前後、吉川元春により城郭の防衛力強化が図られ湊山への築城計画が立案されたとしている。

 

1565年(永禄8年)に出雲国月山富田城が落城し尼子氏が滅ぶと西伯耆の経営は杉原盛重に任されることとなり、1581年(天正9年)、福頼元秀に代わり杉原盛重の配下で伯耆国戸上城の城主、古曳吉種が城番へと任命されている。

古曳吉種の城番任命時期には諸説あり、福頼元秀が尼子残党掃討のため汗入郡へ軍役した期間に城番として留守を預かる記述では1569年(永禄12年)から、福頼元秀吉川元春に従い尼子再興軍の拠る播磨国上月城攻略のため城番を預かる記述では1577年(天正5年)からとされる。

 

1591年(天正19年)、吉川広家が配下の古曳吉種に湊山への築城を命じており、築城奉行には山県九左衛門が任じられている。

同年12月には吉川広家が米子の城下町を14の区に区切り、戸上、法勝寺、黒坂、尾高、岩倉の各城下から住民を勧誘とされる。

※この説は1575年(天正3年)に町が存在した場合と推定。

 

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで西軍の敗北により吉川広家は岩国へ転封となり、新たに駿府より中村一忠が伯耆国へと転封されるが当時の米子は松林の繁茂する未開の地とされ、大名の居住が可能な施設どころか町の存在すら怪しいとする記述も見える。

そのため西伯耆で最も栄えていた伯耆国尾高城を仮の居城とし、執政家老の横田村詮と共に湊山の城郭や二の丸、城下町の整備が整った後に米子城へ入ったとしている。

 

このことは吉川氏の築城や城下町整備の進捗が文書に記される通り進んでいたのか疑問となり、転封時に城の破却などを行った可能性も考えられる。

中村一忠の転封時、飯山への城郭や居館の不在などからも吉川氏が米子城下をどの程度整えられていたのかは史料の発見に期待がかかる。(会見郡米子庄として漁村などの小規模集落が点在した事は伺える)

 

中村一忠が米子城の城主になると家老の野一色采女が居館を構えたことから「采女丸」とも呼ばれる。

 

1603年12月(慶長8年11月)、執政家老の横田村詮が謀殺されると横田主馬助を始めとする横田家の遺臣二百余名が飯山の砦に立て籠もり、米子城騒動(横田騒動)と呼ばれる内乱に発展した。

この内乱は中村方の将だけでは鎮圧ができず出雲国の堀尾氏へ援軍を要請している。

堀尾氏の軍勢が到着すると中村方は正門(大手門)から、堀尾方は搦手(裏門)からの挟撃によって反乱を鎮圧したとする。

 

横田勢が立て籠もった場所には当城を見立てる説と遠見櫓から登り石垣を北下した内膳丸を見立てる説がある。

 

当城に立て籠もったとする説は現在の地名(山名)から唱えられた説と推定される。

中村方の増援として参陣した堀尾氏が大龍山総泉寺に陣を構えたのは加茂川を隔てて相対する当城に横田方が立て籠もっていたからとする状況が推測できる。

 

一説には騒動の黒幕として野一色采女の名前が見える。

日頃より横田氏と野一色氏は対立していたとすることから、何故に横田方が野一色氏の居館に立て籠もったのかは疑問が残る。

横田村詮が謀殺された直後、横田方は満足な軍備をする時間も無いまま内乱状態へなったにも関わらず、中村方が堀尾氏への援軍を頼まざるを得ないほどの抵抗を見せていることは、横田方が相当の準備を事前に行っていたか、或いは武器庫が置かれ防衛機能も高く、横田家で管理をしていた勝手知ったる内膳丸の方が適しているとも推測できる。

 

後の古絵図に当城の施設は白抜きで放逐されたことが記されているため米子城騒動の後、徹底的な破壊・廃城が行なわれたと推定される。

【 遠 景 】

米子城天守台からの眺め

主郭跡には英霊塔

登城口にある案内板

中腹には野面積みの石垣

【 見どころ 】

腰郭及び野面積み石垣

英霊塔の建設により多くの改変を受けているため往時のままとは言えませんが、主郭を囲むように腰郭と思われる平削地が見られます。

腰郭から見える切岸の一部には野面積みの石垣も見ることができますが、普段は整備されていない上、別名に「蛇山」と云われることから足元が不明瞭な時の見学は避けた方が無難です。

また、北面は崩落の危険性が高いため絶対に立ち入らないでください。

【 概 要 】

名 称飯山城(いいのやまじょう)

別 名:飯山砦(いいのやまとりで)、東之丸(ひがしのまる)、采女丸(うねめまる)、米子城(よなごじょう)

所在地:鳥取県米子市久米町

築城年:不明(室町時代中頃~1460年代後半)※出雲私史にて文明2年(1470年)に砦の存在を示す記述が初見

廃城年:不明(1603年(慶長8年)以降?)

築城主山名宗幸

城 主:(伯耆山名氏)山名之定山名秀之山名之玄山名之益※伯耆山名氏が支配する頃、有力国人(伯州衆)も城番を務めたと云われる。(尼子氏)山名之玄山名之益尼子勝久山中幸盛(毛利氏)山名之玄山名之益福原元秀(吉川氏)福頼元秀福頼孝興古曳吉種関祐諸加藤左近(中村氏)野一色采女

形 態:平山城、海城

遺 構:郭、石垣、虎口、土塁?(山頂の平坦地、英霊塔周囲の土塁は砦由来の遺構かは不明)

現 状:山林、公園(英霊塔)

種 類:史跡(市指定文化財:昭和52年指定、国指定文化財:平成18年1月26日指定)

【参考文献】

・出雲私史・伯耆志・伯耆民談記・伯耆民諺記・中村記

・京極政高感状・雲陽軍実紀・米子史談

・米子の伝承と歴史(昭和48年3月:生田彌範)

・萩藩閥閲録(吉川家文書など)

【城娘】

【 縄張図 】

不明

※古絵図に白抜きにて図示あり

(放逐された施設として)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

不明

不明

文明2年

1470年

文明3年

1471年

大永4年

1524年

永禄5年

1562年

永禄12年

1569年

元亀元年

1570年

元亀2年

1571年

天正9年

1581年

天正19年 1591年

天正20年

(文禄元年)

1592年

慶長3年 1598年

慶長5年

1600年

慶長6年

1601年

慶長7年

1602年

慶長8年

1603年

昭和41年

1966年

10月、飯山の山頂に英霊塔が竣工。

工事の際、城に由来する瓦や瓦礫の破片が見つかったと云われる。

【 写 真 】(訪問日:2013/04/29)

登城口には柳生宗章の奮戦を記す案内板

主郭へと続く階段

階段途中には腰郭

主郭の英霊塔付近は一段高い

主郭には東屋

主郭の高まり(英霊塔西側)

主郭の高まり(英霊塔東側)

主郭に放置された岩塊