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HOME > 伯耆古城図録 > 伯耆古城図録 ~米子市篇~ > 旧西伯郡淀江町 > 稲吉城

◆ 稲吉城

【 概 略 】

城山古墳群と小枝山古墳群に所在した城跡と推定され、鎌倉時代の土豪、稲井瀬弘義など稲井瀬氏の居城と云われる。

別名に小枝城、毛利家に伝わる文章では稲石城と見える。

城跡所在地の特定はなされていないが稲吉集落の北に城山(じょやま)の字が見える。

 

名和氏紀事には名和庄の西方二里ばかりの処に稲吉村があり、これは稲井瀬に似せた地名であるとしている。

 

宇田川村史では稲石城址の項に以下の記述が見える。

「永禄12年、尼子再興戦で尼子方に恢復された十五城のうち、伯耆三城の一つ。本村に今、城山(じょやま)と称する地あり。これ其遺跡なるべし(略)稲石城淀井城とは相封峙して(略)当時の国道が東高麗村から寺内村を経て稲吉村へ入り戸構、福頼を過ぎ尾高へ通じたとある」

 

1333年(元弘3年/正慶2年)、佐々木清高の求めに応じて船上山で幕府方として戦った稲井瀬弘義が戦死した後の稲吉村と稲井瀬氏の動向は不明。予てから不仲であった名和氏によって粛清・排除されたと考えられる。

 

伯耆山名氏が伯耆国を支配した頃は藤原氏、尼子氏が伯耆国を支配した頃は大山寺(経悟院)が領したと云われ、1569年(永禄12年)~1571年(元亀2年)、山中幸盛らによる第一次尼子再興戦では経悟院の援助の下、伯耆国末吉城が毛利方に反旗を翻すと伯耆国淀江城と共に呼応し、尼子方へ与した拠点(伯耆三城)の一つとして挙げられる。

山中幸盛が伯耆国寺内城から敗走した頃、或いは末吉城で捕縛された頃(いずれも1571年(元亀2年)8月)に当城も落城したと考えられる。

 

1591年(天正19年)、吉川広家の領地に「七十五貫 稲吉」と記述に見える。

 

地元の伝承には1524年(大永4年)、大永の五月崩れで伯耆諸城が落とされる中、当城も尼子方の軍勢によって包囲されたと云われる。

当時は伯耆山名氏配下の藤原氏が治めており、山中に土管を敷き飲み水を確保するなど籠城の備えは万全で難攻不落の城砦であったとしている。

尼子方に包囲され籠城戦が続いていたが、城主の母が息子の助命と引き換えに当城の水源が後方(東?)の山中にあると尼子方に教えたことにより水を絶たれ落城。尼子の兵は助命の約束を破り城主を殺害したと伝える。

 

この伝承は伯耆国北尾城にも似た伝承が残るが当城に伝わる伝承の方が時代が古い。

北尾城の伝承では時代は天正年間、籠城したのは毛利方で水源(トヨヶ口)は行松方が聞き出している。

 

城山には多数の古墳や石室が存在する。

城域には湧き水も多数存在し、東の山中から土管など水路を使って水を引いていた伝承と、筒状の土管が出土していることから井戸跡のような穴は石室が埋まったものや倒木跡とも考えられる。

 

他にも伝承として伯耆国岸本要害から別所一族が移ってきたとも伝えられている。

【 遠 景 】

北側からの眺め

東側からの眺め

城山古墳群の麓

矢穴の残る石

【 見どころ 】

城山古墳群の石室

城山古墳群には約13基の古墳と数基の石室が残っています。

周辺には古墳の起伏をそのまま城砦に取り入れたり、整地して陣地に用いたとする城砦が伝えられることから当城も古墳を利用した城砦と考えられます。

城砦に関する明確な遺構は見えませんが山中には石室や円墳などを見つけることが出来ます。

【 概 要 】

名 称稲吉城(いなよしじょう)

別 名:稲石城(いないしじょう)、稲井瀬城(いないせじょう)、小枝城(こえだじょう)

所在地:鳥取県米子市淀江町稲吉

築城年:不明

廃城年:不明

築城主稲井瀬氏

城 主:(鎌倉幕府)稲井瀬弘義(伯耆山名氏)藤原氏

形 態:丘城・海城

遺 構:郭跡、土塁?、堀切?

現 状:山林、畑地、城山古墳群、小枝山古墳群

種 類:史跡指定なし

【参考文献】

・伯耆之巻(「群書類従」所収)

・宇田川村史(大正4年9月:鳥取縣西伯郡宇田川村役場 足立正編)

・汗入史綱(昭和12年9月:国史研究部 本田皎)

・淀江町誌(昭和60年8月 淀江町)

・町政百周年記念 淀江風土記(平成元年12月 淀江町役場)

【城娘】

 

【 縄張図 】

存在せず

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

元弘3年/正慶2年

1333年

大永4年

1524年

永禄12年

元亀2年

1569年

1571年

伯耆国が尼子氏の領有になると大山寺経悟院が治める大山寺領とされる。

山中幸盛らによる第一次尼子再興戦では経悟院の援助の下、伯耆国末吉城が毛利方に反旗を翻すと、伯耆国淀江城と共に呼応し尼子方へと与している。

山中幸盛が伯耆国寺内城から敗走した頃か、末吉城で敗れ捕縛された頃(1571年(元亀2年)8月)に当城も落城と考えられる。

【 写 真 】(訪問日:2015/05/16) 

城山古墳群の様子(北側)

城山古墳群の様子(北側)

城山古墳群の様子(正面は土塁?)

城山古墳群の様子(北側頂部)

城山古墳群の様子(北側頂部)

城山古墳群の様子(堀切付近)

城山古墳群の様子(堀切部)

城山古墳群の様子(南側頂部)

城山古墳群の様子(南側)

城山古墳群の様子(南側)

城山古墳群の様子(南側)

城山古墳群の様子(堀切)

城山古墳群の様子(東側)

城山古墳群の様子(東側堀切)

城山古墳群の様子(石室)

城山古墳群の様子(石室)