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HOME > 伯耆古城図録 ~米子市篇~ > 河岡城 > 同好会活動日誌

◆河岡城【訪問日:2013/06/29】 登城難易度⇒☆(楽)

【 概 略 】

現在の御崎神社周辺が城域であったと伝わる。

西伯耆で毛利氏と尼子氏が覇権を争って度々合戦が行われた城の一つとして多くの書物に登場するが

圃場整備によって城跡の遺構は全て消失してしまっている。

 

長らく当地で独立を保った紀氏の一族の居城が始まりと考えられ、毛利氏が支配する頃は西伯耆の

兵糧基地として重要な拠点であったと多くの書物に記述が残る。

当時の城の所在については相見八幡宮(八幡神社:現在の米子市東八幡)に隣接していたと伝わる。

 

1563年(永禄6年)7月3日の尼子方による河岡城襲撃では毛利方の武将、一条市介が銃撃によって

負傷したとする記述から、伯耆ではこの戦で初めて鉄砲が用いられたと考えられている。

【 遠 景 】

南側からの御崎神社

御崎神社

【 概 要 】

名 称河岡城(かわおかじょう)

別 名:川岡城(かわおかじょう)、河岡陣小屋(かわおかじんごや)

所在地:鳥取県米子市河岡

築城年:不明(16世紀中の築城とされる)

築城主:不明(在地土豪の国人、河岡氏の一族によって築城されたと考えられている)

城 主:紀氏(河岡氏)…紀朝臣久貞

    尼子氏…紀朝臣久貞

    毛利氏…紀朝臣久貞山田満重片山平左衛門一条市介小寺元武

    小早川氏…末近宗久

    吉川氏…境経俊

文 献:萩藩閥閲録、伯耆志

形 態:平城

遺 構:無し(圃場整備によって消滅)

現 状:御崎神社、田圃

種 類:史跡指定なし

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

不明

不明

紀氏(河岡氏)の一族によって16世紀中に築城されたと云われる。

大永4年

1524年

 

伯耆山名氏とは結ばず独立を保ってきた紀氏であったが、

大永の五月崩れを契機に尼子氏へ従属したと云われる。

永禄5年

1562年

出雲国へ送っていた人質の死亡を理由に、尼子氏との縁が切れたと

紀朝臣久貞は尼子氏から離反し毛利氏と結んだと云われる。

同年、尼子氏によって城を攻められるが撃退し、毛利氏の勝利に

貢献している。

永禄6年

 

1563年

 

2月、小早川隆景が家臣の末近宗久を城番として遣わしたとあり、

後に毛利家の家臣、山田満重が城番に任じられている。

山田満重の不在時には片山平左衛門が城番を務めたともされる。

 

伯耆における毛利軍の兵糧基地であった当城へは尼子方の部隊が

度々襲来し、城外に備蓄してあった兵糧米を焼かれるなどの損害を

出してはいるが、いずれも毛利方は尼子方を撃退している。

 

7月3日の戦闘では守将の一条市介が銃撃により負傷。

この頃には毛利家の家臣、小寺元武が入城ともある。

 

尼子方の手間要害丸山固屋小鷹城)、不動ヶ嶽城江美城などが

落城すると尼子氏勢力は一気に西伯耆から駆逐された。

不明

不明

吉川家の家臣、境経俊が城番に任命され16世紀中に廃城と伝わる。

【 写 真 】

御崎神社境内

御崎神社境内

御崎神社境内

御崎神社境内

御崎神社境内

御崎神社境内

境内からの田園風景

境内からの田園風景

境内の南側に郭跡?

境内の南側に郭跡?

境内南側の郭跡?に土塁??

境内南側の郭跡?に土塁??

―同好会活動日誌―

お城の遺構は全壊認定だけど、軍記物や古文書には度々登場する河岡城

米子市で毛利氏と尼子氏が幾度となく激戦を繰り広げたとされるお城の一つだよ。

これで遺構が完存していたら申し分なかったのに…残念ね。

 

城主(城番)とされる人物から入城していたとされる人物まで多くの武将が

登場する城だけど、特に注目したいのは毛利方の勇将、一条市介

1563年7月3日の尼子氏来襲の最中、銃撃によって負傷する記述が出てくるけど、

この記述が伯耆で初めて鉄砲が使われた戦と云われているわ。

一条市介はこの他にも米子市内での戦闘で幾度か名前が出てくる武将なので

詳細がわかり次第、武将列伝に追記していく予定よ。

お城は毛利方の兵糧基地として、重要な拠点だったみたいだね。

元々は古代豪族、紀氏の一族の城で長い間独立を保っていたけど、紆余曲折を経て

毛利方の城になっているわね。

近くの八幡神社には城主であった紀朝臣久貞から寄進された唐櫃も現存しているわ。

 

西伯耆で毛利氏と尼子氏が覇権を争った頃は兵糧米の備蓄や輸送に関して出雲から

淀江まで話が繋がり、当時の商人に達した兵糧や物資の売買規制など毛利氏の

物資統制の手法も伺えるわ。

 

城番には多くの武将の名前が出てくるけど、地元に縁のある武将では米子の地侍、

片山平左衛門が城番を務めたかもしれない、という説は興味深いわね。

八幡神社では最近、吉川広家からの棟札が見つかっていたりもするので、

新しい発見をついつい期待してしまう城跡だね。

…何度も言うけど遺構さえ残っていたらなぁ。。。