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HOME > 伯耆古城図録 ~米子市篇~ > 北尾城 > 同好会活動日誌

◆北尾城【訪問日:2013/12/25】 登城難易度⇒★★★☆☆(難しい)

【 概 略 】

小字で「要害」と呼ばれる山頂に主郭を置いた山城と云われる。

旧福岡村(北尾村)の村内には「城山」「山要害」など城に由来する旧字が幾つか残る。

 

御巡見様御廻手鏡では城主不明の城と記されるが毛利方の山城であったと云われ、

トヨヶ口と城郭の高低差がほぼ同じであったことから城内へと続く水路が引かれていたと伝わる。

 

一説には天正年間、伯耆国での最後の戦い、香原山城の戦いに登場する伯耆国香原山城は当城とされる。

近くには香原山城の戦いで討死した福頼藤兵衛の首塚(福頼塚)と伝わる場所が存在し、

福頼藤兵衛を弔ったとされる五輪塔も建立されていたと云われる。

※現在、福頼藤兵衛の五輪塔は武崎神社の境内に移されている。

 

北尾城の探検は上淀白鳳の丘展示館様からのお誘いと、城跡が所在する山林を所有される方の

ご厚意により、許可を頂いて城跡への登城を行わせていただきました。

城域の山林は複数の方の所有であり、ここに限らず無許可での入山はされないようお願いします。

【 遠 景 】

向かって左の山が北尾城跡

向かって右の山が鐘突堂(見張砦?)跡

鉄塔建設のため一部に改変あり

トヨヶ口

北尾城の水源

【 概 要 】

名 称北尾城(きたおじょう)

別 名高尾城(たかおじょう)、香原山城(かわらやまじょう)?

所在地:鳥取県米子市淀江町福岡

築城年:不明

築城主:不明

城 主:毛利氏…福頼元秀福頼藤兵衛

    南条氏…行松次郎四郎

文 献:淀江町誌、御巡見様御廻手鏡、宇田川村史、汗入史綱、陰徳太平記、萩藩閥閲録

形 態:山城

遺 構:郭跡、堀切、土塁、土橋、竪堀、虎口、井戸跡、礎石、水路跡

現 状:山林

種 類:史跡指定無し

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

戦国時代

不明

戦国時代、高尾谷より水道が通じていたとあり、

福頼元秀が当城を固守したと云われる。

天正年間

不明

南条方の武将、行松次郎四郎が水口を西に通じて手勢を上淀へ

攻め込ませたとある。(宇田川村史)

城主の福頼左衛門福頼元秀)は応戦するも兵糧が尽きると城に

火を放ち遁走、最期は福頼塚にて射殺されたと記述される。

※ここで討死したのは福頼元秀ではなく福頼藤兵衛と云われる。

香原山城の戦いとほぼ同様の記述が見られる。

不明

不明

城主の討死によって城は行松次郎四郎の手に陥ちたと考えられるが、

その後の詳細は不明。

【 写 真 】

塔ヶ谷からの登城道

トヨヶ口からの登城道

トヨヶ口からの登城道を進むと鉄塔(南側)

城域には2基の鉄塔がある

南側鉄塔付近の郭跡

南側鉄塔付近の郭跡

南側鉄塔付近の郭跡

南側鉄塔と北側鉄塔を繋ぐ登城道

登城道の道中には土塁や郭跡が散見

2基目の鉄塔(北側)

北側鉄塔付近の郭跡

主郭下(南側)の堀切

主郭下(南側)の堀切

主郭

主郭

主郭

主郭

主郭東側の郭跡

高尾谷(水口)方面を監視した見張櫓跡か?

主郭の虎口

主郭の井戸跡?

主郭土塁の礎石跡

主郭下の堀切付近の土塁

主郭土塁

主郭下の堀切付近の土塁と礎石

主郭下の堀切付近の土塁

主郭下(西側に対する)の堀切

主郭下(西側に対する)の堀切

主郭下の竪堀

主郭下の竪堀

主郭の腰郭

主郭の腰郭

ニノ郭(主郭北側)

ニノ郭(主郭北側)

ニノ郭の虎口

ニノ郭の虎口

主郭とニノ郭を隔てる堀切

主郭とニノ郭を隔てる堀切

ニノ郭の土橋

ニノ郭の土橋

ニノ郭の土橋の礎石跡

ニノ郭の土橋の礎石跡

ニノ郭と三ノ郭を隔てる堀切

ニノ郭と三ノ郭を隔てる堀切(上より)

三ノ郭には巨大な井戸跡がある

水路は三ノ郭付近に繋がっていたと考えられる

三ノ郭(北端)

三ノ郭(北端)

三ノ郭の腰郭

三ノ郭の井戸跡

三ノ郭が水手と考えられる

トヨヶ口から城内へ水路が引かれたと云われる

(写真は高尾谷方面へ流れる水路)

武崎神社境内に福頼大明神として祀られる

福頼藤兵衛の五輪塔(改築)

福頼藤兵衛を弔ったとされる五輪塔

元々あった場所(福頼塚)は不明とのこと

―同好会活動日誌―

今回は上淀白鳳の丘展示館様からのご厚意で「城跡に登らないか?」とお誘いを

頂いて、山を所有される方、城跡の調査に詳しい方、展示館の学芸員さん達と

一緒に城山を探検してきたよ。

今回の探検で解ったことは、資料となる

「鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)」に掲載される縄張り図。

 

実はこの図、違う山を調べて描かれた縄張り図みたいね。

調査報告書の縄張り図は「鐘突堂」が所在した「伝えの施設」があったと伝わる

山の方で、城域には一応入るけど「北尾城の縄張り図」としては不適切なのよね。

(鐘突堂の山の所有者には入山の許可を得ていないので今回は未調査)

え…じゃあ、北尾城の縄張り図は存在しないの?

それは大丈夫。

淀江町誌にも載っているけど、遠藤忠氏の調査された縄張り図が存在するわ。

この縄張り図があったから調査報告書の縄張り図に違和感を感じたのよね。

 

城山を所有される方からも北尾城が所在した「要害」とされる旧字が残る地が

調査報告書に記された山とは違う事も確認しているので、一人で登っていたら

確実に知恵熱出していた事でしょうね。

ちなみに…

調査報告書の縄張り図は地形図と照らし合わせる限り、

方位も遺構に関しても「鐘突堂」の縄張り図としては間違っていないみたい。

山を所有される方に許可が貰えるようなら確認のために登ってみたいね。