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HOME > 伯耆古城図録 ~米子市篇~ > 小波城 > 同好会活動日誌

◆小波城【訪問日:2013/05/26】 登城難易度⇒★★★(難しい※確認不能の遺構有)

    【再訪問日:2014/08/17】 登城難易度⇒★★(普通※地元有志が整備を行ったため)

【 概 略 】

城の正確な場所、城域の範囲や規模については現在も特定されていないが太平記の舞台として

多くの書物にその名前が見える。

鎌倉時代末期は元弘の頃(1331年~1334年頃)、隠岐を脱出した後醍醐天皇を擁した名和方と

鎌倉幕府方との戦い(船上山の戦い)において幕府方が陣城に接収した城として当城の記述が見える。

 

伯耆志 小波村の条、城跡の件では以下の記述が見える。(一部抜粋、誤字修正、現代仮名へ変更あり)

「三輪山の西に在りて字を大名屋敷と呼ぶ。元弘の頃、大石橋五郎左衛門の居城なりしと云ふ。

 其南にハサマと呼ぶ地あり。狭間平五郎と云いし人の構えし跡なりと伝えり。伝詳ならず。

 馬場射場の跡あり。城跡空堀松樹繁茂すと云えとも彷彿に往昔を見るべし。

 又、福田原と呼ぶ地に五輪塔あり。前年此地にて骸骨及び釼を掘出せしと云ふ」

(※福田原は現在の鳥取ダイハツ淀江総合サービスセンターの周辺の小字)

 

城の所在地に関しては諸説あり、

・旧三輪神社の鎮座した三輪山西側の丘陵先端(字下原田※旧字大名屋敷)とする説。

・字上ヶ津(通称アゲ畑)の南側(字狭間谷の南側、字狭間屋敷付近)とする説。

以上の2説が諸説の中でも有力とされている。

 

建治元年頃(1275年頃)には当城付近に伯耆の守護所が置かれていたとされ、

周辺に点在する古墳群、字上三輪山に所在する百人塚の存在から往時に栄えていたことが伺える。

群書類従(伯耆之巻)では船上山の戦いで敗走した佐々木清高の軍勢700騎余りが当城に立て篭もり

抗戦したと記述も見えることから城郭の規模は広大な範囲に及んだとも推測ができる。

 

当城は蒙古襲来に備えて築城された城砦の一つと云われ、同時期に建造された日本海側の諸海城

(伯耆国末吉城、伯耆国福尾城、伯耆国富長城、伯耆国長野城など)を統括した城とする説の他、

伯耆国尾高城の支城であったとする説もある。

※鎌倉時代頃の伯耆国尾高城が支城を持つ程の規模であったのかは疑わしい。

 

城主とされる大石橋五郎左衛門についても不明な点が多く、幕府方の書物にも詳細が見えないことから

当地で独立を保った地侍であったと考えられる。

陣城として当城が佐々木清高によって接収された際、大石橋氏一族の動向についても不明であるが、

大石橋五郎左衛門の墓とされる五輪塔、今宮さん(大石橋氏の次男)、若宮さん(大石橋氏の末子)を

祀った祠など、周辺には大石橋氏を祀った場所が多く云い伝えに残る。

【 遠 景 】

城跡と推定される字大名屋敷の遠景(北側より)

主郭の様子

畑地として使用され改変を受けている

【 概 要 】

名 称小波城(こなみじょう)

別 名:小浪城(こなみじょう)、大名屋敷(だいみょうやしき)、狭間屋敷(はざまやしき)

所在地:鳥取県米子市淀江町小波

築城年:鎌倉時代末期(蒙古襲来に備え築城?)

築城主:不明

城 主:(所属不明)…大石橋五郎左衛門

    鎌倉幕府軍…佐々木清高

文 献:群書類従(伯耆之巻)、続群書類従(異本伯耆巻)、伯耆志、淀江町誌、因伯記要、

    三輪神社沿革誌、尾高の里(野口 徳正 著)

形 態:平山城・海城

遺 構:郭跡、土塁、土橋、虎口?、空堀、川堀、堀切(※西の堀切、土塁の一部は消滅)

現 状:山林、畑地

種 類:史跡指定なし

【縄張り】

平成8年度発掘調査の第1図「小波城周辺地形図及び縄張り」に記載(※掲載許可申請予定)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

元徳年間

1330年頃

築城年、築城主は不明。一説には蒙古襲来に備えた築城とされる。

在地の地侍、大石橋五郎左衛門が城主であったとされる。

元弘3年

正慶2年

 

1333年

3月3日、隠岐より脱出した後醍醐天皇討伐のため鎌倉幕府軍の

佐々木清高が当城に入ったと云われる。

それまで当城の城主であった大石橋五郎左衛門の所属・動向は不明。

 

大石橋五郎左衛門は幕府側文書にも詳細が書かれていないことから

当地で独立を保った地侍と考えられ、佐々木清高の入城に抵抗するが

幕府軍の攻撃(焼討とある)によって落城し大石橋氏の一族は

排除されたとする説があり、この時の戦闘によって三輪神社も

焼討を受け焼失、多数の古文書が失われたと伝わる。

 

詳細な経緯は不明だが、最終的に当城は船上山の戦いに備える

陣城として幕府軍に接収されたと云われる。

 

4月24日(閏2月29日)、船上山の戦いが始まったとされる。

後醍醐天皇及び名和長年討伐のため佐々木清高の軍勢が

船上山へ向け出陣するも名和方の迎撃に遭い敗走している。

 

佐々木清高は700余名を率い当城へと退却し、軍勢を立て直すと

城に立て籠もり抗戦したとされ、追撃してきた名和方の軍勢を

白昼の迎撃戦では勝利し退けるが同日の夜半、名和方の軍勢による

夜襲では四方八方から松明を投げ込まれ焼討を受けたとされる。

この夜襲に当城を支えきれず佐々木清高は城を捨て、息子と共に

隠岐へと一艘の小舟で逃げ帰ったとある。(群書類従・続群書類従)

 

焼討を受けた後はそのまま放逐され廃城になったとされる。

【 写 真 】

主郭(字大名屋敷)の様子

南側は虎口のような形状となっている

主郭北側の切岸上に配した土塁

主郭北側の切岸の高低差(土塁から)

比高は4~5m程度

主郭西側の土塁と2号堀切

並びとしては写真左から順に

1号堀切・土塁・2号堀切・主郭西側土塁

主郭西側の土塁から主郭の眺め

主郭西側の2号堀切

主郭西側の1号堀切

主郭西側の1号堀切(2号堀切の西側)

主郭と南側の郭跡を断ち切る堀切

※但し畑の水路として改変の可能性あり

主郭南側の郭跡

索敵施設を置いた郭跡の可能性も考えられるが

南の三輪神社に関連した施設とも

主郭南側の郭跡には土塁(北側)

主郭南側の郭跡の土塁(北側切岸上)

主郭南側の郭跡の土塁からの高低差

東側の川掘

途中からは田圃の水路として

増設や延長など改変を受けている

主郭東側の切岸下には数基の芋倉庫

芋倉庫は周辺に3基ほど残る

主郭より丘陵を西に登った鉄塔付近には

発掘調査により堀が在ったことが判っている

堀があったとされる場所

一説に小波城跡と云われる狭間屋敷の遠景

狭間屋敷への道

狭間屋敷

小波城の主郭であった可能性が考えられている

狭間屋敷の様子

岡成へ続く旧日野街道

旧日野街道沿いの今宮さん

(かつては祠が鎮座したとも)

的場

的場の白衣観音

馬場

上ヶ津(通称アゲ畑)の港

上ヶ津周辺

当時はこの辺りまで入り江であったと伝わる

唐仏

五輪塔・宝篋印塔がごちゃ混ぜに…

現在の三輪神社

薬師堂

小波城跡から南にはかつて三輪神社が

鎮座した三輪山が見える

下原田の畑に点在する古墳

かつてこの辺りが港であった証拠とする波岩

―同好会活動日誌―

今回も「よなご88探宝会」の城郭ウォークで探検してきたよ~。

おおぅ、こんな見事な土塁だったなんて。。。

1年前に来た時は草に埋まってて遺構の確認どころじゃなかったからね。。。

てか、これは土塁の他にも空堀まではっきりと!

お城の説明でも書いたけど、実は小波城って場所がまだ特定されて

いなかったりするんだよね。

一応、道路の建設や畑の整備のための発掘調査から

「ここっぽい!」

って感じで地図にある場所が小波城の場所として有力視されてるんだよ。

発掘調査の図面を見たけど、この比高と場所から考えると本丸というよりは

出丸って感じがするわね。

おまけに言えば小波城の出丸と言うよりは旧三輪神社の出丸としたほうが

しっくりくる防御の配置なのよね。

え?

どゆこと。。。???

発掘調査の縄張り図を見ると、西側に対しては高層の土塁と堀切で防御力を

強化しているのに対して対照的に東側の防御は驚くほど薄いの。

見張り櫓を置く程度の郭跡と低層の土塁はあるんだけど西側の防衛施設と

比較すると違いは一目瞭然。

ちなみに現在小波城の主郭とされている城域外の西側には空堀と土塁が

配置されていたらしいの。(道路と農地への改変により消滅済み)

城域外の東側も高速道路の建設で改変済みだけど、現在の等高線から見ても

恐らく三輪山との境界は堀切程度の防御施設しかなかったと思うわ。

え、じゃあ小波城って三輪神社の一部だったってこと?

小波城が焼討されているときに一緒に焼かれていたりする事や、今の地形だけを

見るとそんな気もするけど「小波城が蒙古襲来に備えて築城された」

という説と「当時は近くまで入り江で海だった」という説を取り上げると

西側だけの防備で十分だった可能性もあるのよね。

???

まず、蒙古襲来を考えると敵が攻めてくるとしたら海から。

そして海から最短距離で小波城など軍事施設を落とそうと思えば十中八九、

北側か西側から攻めてくると考える訳。

当時はグー○ルマップなんて便利なものは無いし、土地勘の全く無い外国の人間が

迂回するルートを選ぶことはまず考えられないからね。

 

あ、言い忘れていたけど北側は天然の川掘があったようなので

低層の土塁だけでもかなりの高低差を稼ぐことができてたみたい。

更に北側は壺瓶山が天然の要害の役割をしてくれていたはずなので船での接近が

困難となれば必然的に攻めてくるのは西ルート。って感じかな。

だからとりあえず西側に防御施設を固めておけば時間は稼げるって話。

…三国志のゲームで26万の軍勢を2万で追い払う戦略眼は伊達じゃない?

まあ、実際は小波城の何処が一番重要な施設だったかでも変わってくるけどね。

仮説にある、実は小波城の主郭は上ヶ津の南側だった…ってなってしまうと、

さっき考えた案で出丸をいくら強化したところで主郭が真っ先に落ちてしまえば

全然意味が無いワケだし。。。

うーん、主郭の位置すら確定していない状況だといくら妄想しても

結論は出ないかもね。

いやいや、妄想できる余地があるから楽しいのよ。歴史ってのは。