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HOME > 伯耆古城図録 ~米子市篇~ > 日下城 > 同好会活動日誌

◆日下城【訪問日:2013/06/29】 登城難易度⇒☆(楽)

    【再訪問日:2014/04/26】 登城難易度⇒☆(楽)

【 概 略 】

伯耆志の日下村の条、城跡の件に以下の記述が見える。

「村の北西二丁許りの田土なり。周回(周囲)十五間許りの小丘あり。下新印村の下に見えたる

 真野隠岐守と云いし人の城なりしか是は日野郡真野村に在て後、此地に移住せしなるべし。

 下新印村薬師堂の證文を以て知るべし。年紀を考ふるに山名氏の部下なるべし。

 上に記する如く瑞仙寺の地は当家の別荘の跡なりと云へる」

※記述にある別荘(現在の瑞仙寺)は真野氏館であったと云われる。

 

精進川(佐陀川とも)の度重なる氾濫で丘陵は次第に削り取られ、江戸時代の初め頃までには

城跡の所在した丘陵は消滅していたと伝わる。

旧字には古城(ふるしろ)という字が見られ、現在も田圃区画の呼び名として「古城」が使われている。

他にも「南古城(みなみふるしろ)」「砂堀」など城と関係を伺わせる旧字が見られる。

 

野口徳正氏の著した「尾高の里<Ⅲ>」には城跡は日下集落の北方で精進川と盤川の交わる丘陵に

所在したとされる。

(精進川は精神川、盤川は半川、番川などとも云われ氾濫の度に流路が変わったと言われる)

当時のバイパス(恐らく現在の県道53号線)西側にある田圃整備から取り残された一角の

小さな森が城跡であると記されている。

(平成26年現在、その森も改変され送電線の鉄塔などの付随建物施設がある付近とされる)

【 遠 景 】

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

において城跡と推定される場所

地元の農家さんから聞いた字「古城」

(写真左側の鉄塔付近)

【 概 要 】

名 称日下城(くさかじょう)

別 名:久坂城(くさかじょう)

所在地:鳥取県米子市日下

築城年:1400年代(15世紀中)

築城主:伯耆山名氏

城 主:伯耆山名氏…真野隠岐守真野重成真野宗鎮

文 献:伯耆志、伯耆誌、岸本町誌、瑞仙寺文書

    戦国動乱期の伯耆~その戦乱の跡をたどる~(2007年11月1日発行)

    尾高の里<Ⅲ>(昭和52年8月20日発行 野口徳正 著)

    尾高の里<Ⅳ>(昭和59年6月25日発行 野口徳正 著)

形 態:平山城

遺 構:消滅(江戸時代の初め頃には精進川、或いは佐陀川の氾濫によって消滅したと伝わる)

現 状:水田、鉄塔、舗装道路

種 類:史跡指定なし

【縄張り】

存在せず

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

不明

不明

伯耆山名氏の家臣、真野隠岐守が居城したと云われ、

15世紀中ごろに築城されたと伝わる。

文明12年

1481年

因幡国円山城の戦いに勝利した山名元之が残敵掃討のため

西伯耆の諸城を攻撃したとされ、伯耆国法勝寺城に続いて当城を

攻撃したとある。(日下城の合戦)

不明

不明

15世紀中に廃城されたと伝わる。

江戸時代

初め頃

 

1600年代?

精進川(佐陀川とも)の度重なる氾濫によって丘陵は削られ

江戸時代の初め頃までには城跡の所在した丘陵も消滅したと

云われる。

【 写 真 】

北側には伯耆国尾高城が見える

旧字「古城」と云われる付近

旧字「古城」と云われる付近

正面の鉄塔の辺りが城跡と云われる

―同好会活動日誌―

江戸時代の初め頃には消滅しちゃったお城だって。。。

精進川と半川の交わる付近に在ったとも云われるけど、

川の氾濫の度に流路も変わったみたいなので…場所の特定が難しいお城だね。

お城が所在した頃の状態を伯耆志では

「周回(周囲)十五間(約27m)許りの小丘あり」

としているけど、現在は田圃整備によって一面の田園風景ね。

 

1481年(文明12年)、山名氏の内紛で山名元之が掃討戦を仕掛けたとする戦

(日下城の戦い)があったと云われているわ。

伯耆国真野城の城主で伯耆山名氏の家臣、真野隠岐守が居城した城とする

記述もあって、現在の瑞仙寺が真野氏の別荘であったとも記述が見えるわね。

戦があったとされるけど…周囲27mの小丘が城跡。

ってのは小さ過ぎない?

伯耆志の記述を見る限りだと本当に小さな砦のような建物があったのでしょうね。

真野隠岐守が居城したとあるけど、真野氏の本拠は現在の伯耆町(旧岸本町)

真野にある伯耆国真野城であったとされているので、当城は戦時のためだけの

簡単な施設だったとも考えられるわね。

伯耆志が書かれる前には消滅していた(らしい)お城だよね…

ある意味「幻の城」なのかもしれないね。