トップページへ
お問い合わせフォーム

HOME > 伯耆古城図録 ~米子市篇~ > 尾高城

◆尾高城

 

【 概 略 】

西伯耆の諸城を一望できる丘陵に所在し、城下には大山寺方面、山陽方面へと通じる街道が通っていたことから交通の要衝として栄えたとあり、

1601年(慶長6年)、中村一忠が伯耆国の領主となり湊山に伯耆国米子城が築城されるまでは西伯耆随一の規模を誇ったと云われる。

 

別名「泉山城」とも呼ばれ、城の興りについては定かでないものの鎌倉時代、南大首郭に築城された城砦か居館が始まりと考えられている。

(この南大首郭跡に所在した建物跡を「岡成城」と考える説も存在する)

古くは弥生時代~古墳時代まで遡る遺構や出土品も発見されていることから太古から近畿地方との交流も伺える。

 

伯耆志では尾高村の条、城跡の件に以下の記述が見える。

「村の東一丁許に在て尾高岡成の地堺なり東北中間村の傍迄差続きたる岡山の首にて此地以東は田土漸く高く以西俄に低し三山あり。

 北を本丸と云い、中を二ノ丸、南を天神丸と云ふ。

 皆松樹繁茂せり五十年前は四方に石垣有しを村民取て敷石などに用ふるに幾人持と記せるか明に見えしと云へり。

 城の廣周回五丁許にて東に隍(ほり)の跡あり。東南に古井あり。城跡年を追て田畑となり漸く狭小になりしと云へり」

 

1524年(大永4年)、大永の五月崩れでは尼子氏の西伯耆への侵攻によって伯耆国の支配が伯耆山名氏から尼子氏へと移り、

戦国時代には尼子氏と毛利氏が西伯耆の覇権を巡り争っている。

当城でも伯耆山名氏麾下(後に毛利氏へ与する)の行松正盛、毛利方の杉原盛重、尼子方の羽倉元蔭山中幸盛など伯耆国内外の戦場でも活躍した

武将の多くが合戦を繰り広げたと伝わる。

 

1570年(元亀元年)に尼子再興の軍を挙兵した山中幸盛が1571年(元亀2年)、伯耆国末吉城の戦いで捕縛されると当城まで連行され、

一時幽閉(幽閉場所は現在のⅣ郭と呼ばれる郭と推定されている)されたと云われるが赤痢と偽り番兵を欺き厠から脱出したとする話は有名。

(伯耆志、雲陽軍実記、森脇覚書、萩藩閥閲録など多数の文献に記述)

山中幸盛が捕虜となったのも当城の内情を調べるためわざと捕虜になったとする説、捕縛後に杉原盛重の虚を突き一時的に当城を奪取する話など

多岐にわたる物語や言い伝えも残る。

 

1591年(天正19年)までに毛利氏が伯耆に有した四城(五城)のうちの一城として小田加城の記述も見える。 (萩藩閥閲録)

 

関ヶ原の戦いの後までは西伯耆随一の城下町を有した当城だが、米子の湊山へ新城となる伯耆国米子城の築城中は中村一忠の仮住まいとして利用され、

伯耆国米子城が完成すると政治機能の中枢は米子へ移されると当城は廃城となったと伝わる。

その際に当城の建物が伯耆国米子城の旧天守(吉川広家の築城とされる天守)へ移築されたとする伝承もある。

 

当城の廃城後、尾高城下の有力商人らは米子城下へと移住し米子城下での商いに注力し城下の発展に貢献したとある。

尾高城下から移った町民が多く居住した場所は「尾高町(おだかまち)」となり、茣蓙(ござ)、畳表、後に呉服なども町禄に加えられている。

 

尾高から米子米子城下へ移住し恩恵を受けた商人らが居た一方、これまでの主産業が全て米子城下へ移ってしまったことから尾高城下はこれまでの

栄華を失い徐々に廃れていき、城下町を田畑へと戻し生活の糧を確保しようとしたとも伝承には伝わる。

「生活は苦しく自ら命を絶つものが後を絶たなかった」と、尾高城下に残された民の過酷な歴史を物語る言い伝えも残る。

 

現在の体育館の敷地(南大首の東側)からは五輪塔が多く出土し、岡成新道を越えた南側に集められている。

 

1902年(明治35年)、天神丸の北の空堀を利用して岡成新道が建設された。

【 遠 景 】

本丸跡

※私有地のため無許可での立入は禁止

南大首郭と鎌倉時代の建物跡を断ち切る

堀にかかる木橋(堀・木橋・土塁は復元)

鎌倉時代の建物跡でここが当城の始まり、

或いは伯耆国岡成城とする説も

【 縄張図 】

 

尾高城略測図(主要遺構名の加筆)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 概 要 】

名 称尾高城(おだかじょう)

別 名:泉山城(いずみやまじょう)、小鷹城/小田加城(おだかじょう)、

    小鷹泉山城(おだかいずみやまじょう)、岡成城(おかなりじょう)?

所在地:鳥取県米子市尾高

築城年:不明(鎌倉時代の築城が始まりとされる)

廃城年:1601年(慶長6年)頃

築城主:不明

城 主:伯耆山名氏…山名時興行松正盛

    尼子氏…吉田光倫山中幸盛

    毛利氏…行松正盛杉原盛重杉原元盛杉原景盛木梨中務少輔吉田元重吉川元春

    中村氏…中村一忠

文 献:伯耆志、伯耆民談記、萩藩閥閲録、森脇覚書、陰徳太平記、雲陽軍実記、伯耆志捜図、

    天保14年田畑地続全図、因伯古城跡図志、尾高城址発掘調査概報、尾高城址Ⅰ&Ⅱ、

    尾高の里~各巻~(野口徳正 著)、その他資料多数

形 態:連郭式平山城

    (本丸、二ノ丸、中ノ丸、天神丸、南大首郭、越ノ前郭、Ⅳ郭、方形館、伝倉庫跡)

    ※本丸及び二ノ丸は個人所有の土地で所有者の許可なく立ち入ることはできません!

遺 構:掘立柱建物跡、礎石建物跡、郭跡、腰郭、土塁、虎口、堀切、空堀、切岸、石垣、井戸跡

現 状:山林、原野、舗装道路、商業施設、駐車場

種 類:史跡(米子市指定文化財:昭和52年指定)

登城難易度⇒★★★(難しい)

※本丸・二ノ丸など城の全域を見る場合。整備された部分のみの登城は★★(普通)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

鎌倉時代

不明

時期は不明だが、鎌倉時代に城砦あるいは居館が当城の始まりとされる。

(この建造物が伯耆国岡成城とする説も見える)

大永4年

1524年

尼子氏の伯耆侵攻(大永の五月崩れ)により落城した城の一つとして記述が見える。(伯耆民談記など)

城主であった行松正盛は当城を放棄し一族と共に国外へ退去。後に大内氏、毛利氏を頼ったと云われる。

尼子方の支配下では城番として吉田光倫が置かれたと伝わる。(伯耆民談記)

永禄5年

1562年

毛利氏が西伯耆周辺に拠った尼子方の城砦を攻略。

毛利方の管理下ではあったが当城は伯耆山名氏の支配へと戻り、軍功のあった行松正盛が再び城主として任じられている。

永禄7年

1564年

城主であった行松正盛は病没。

毛利家の家臣、杉原盛重が城主へ任じられている。

永禄12年

1569年

尼子再興軍の山中幸盛らによって一時、城を奪われたとされる。(陰徳太平記)

元亀2年

1571年

2月、尼子再興軍が当城を襲撃するが杉原盛重によって尼子方は敗北している。

この戦で尼子再興軍の武将、平野久基が討死とある。

 

3月、尼子再興軍の武将で秋上久家の部将、羽倉元陰らが伯耆国米子城飯山城)に続いて当城を襲撃。

杉原盛重によって尼子方は敗北している。

この戦で尼子再興軍の武将、羽倉元陰が討死とある。(秋上久家は後に毛利氏へと帰順している)

 

6月、伯耆国末吉城の攻防戦において吉川元春の捕虜となった山中幸盛が当城に連行され監禁されたと伝わる。

山中幸盛は赤痢と偽り番兵を欺くと厠の汲み取り口から脱出したと云われる。

天正3年

1575年

杉原盛重が羽衣石城主南条宗勝を城内に招き毒殺したとある。(伯耆民諺記)

※この出来事は伯耆民諺記での創作とされ、逆に杉原盛重南条宗勝によって毒殺されるという伝承も見える。

天正9年

1581年

伯耆国八橋城の城主となっていた杉原盛重が病没、杉原家の家督は嫡男の杉原元盛へ譲られている。

天正10年

1582年

杉原盛重の家臣であった菖蒲重政杉原盛重の二男、杉原景盛が結託・共謀し、兄の杉原元盛を当城二ノ丸付近で謀殺。

しばらくの間、杉原景盛が当城の城主とされる。

 

一連の杉原家の家督争いに毛利方の小早川隆景吉川元長らは「杉原景盛は南条と結び毛利に叛意あり」とし、

吉川元長は部将の香川春継粟屋就光らを伯耆国へ派兵している。

杉原景盛の居城であった伯耆国佐陀城を包囲した後、先に木梨中務少輔が守備を任されていた当城から攻略している。

 

杉原家お家騒動の後は杉原盛重の娘婿であった吉田元重が城番へと任じられている。

慶長6年

1601年

伯耆国の領主となった中村一忠が伯耆国米子城築城の完成までの間、仮の居城として居住したと云われる。

湊山に新城となる伯耆国米子城が完成した後、当城は廃城になったと伝わる。

(この時、当城の建物が伯耆国米子城へ移築されたとする伝承が伝わる)

横田村詮によって米子城下の整備に合わせた尾高城下の商人など領民の移住も行われたとある。

【 写 真 】(訪問日:2013/04/22、2014/07/20】 

本丸への登城道(南側)

列石遺構(畑地への改変時の水路跡?)

列石遺構

主郭(本丸)の枡形虎口

主郭(本丸)の様子

主郭(本丸)の井戸跡?

主郭(本丸)の土塁(南東側)

主郭(本丸)の土塁(北東側)

主郭(本丸)の土塁(北側)と礎石

主郭(本丸)の礎石(北西二ノ丸側)

主郭(本丸)の礎石(南西二ノ丸側)

二ノ丸の様子(伝・泉水跡と云われる)

二ノ丸の土塁(北側)

二ノ丸の門があった場所と云われる

二ノ丸の土塁(北西側)

二ノ丸の土塁(西側)

二ノ丸の土塁(西側)

二ノ丸北端(開削による改変有)

二ノ丸の石積(畑地へ改変時の境界?)

二ノ丸の石積(廃城後の造作物と考えられる)

山下通路(下手)

山下通路(上手)

山下通路脇の切岸

山下通路の上(北西側)の郭跡

中ノ丸の様子

中ノ丸の土塁(南側)には虎口状の開削

中ノ丸からⅣ郭へ続く木橋などがあった?

南大首郭の様子

南大首郭と鎌倉時代の建物跡を隔てる空堀

方形館跡

方形館跡の空堀