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HOME > 伯耆古城図録 ~米子市篇~ > 先白手城 > 同好会活動日誌

◆先白手城【訪問日:2013/11/06】 登城難易度⇒★★(普通)

【 概 略 】

伯耆志の大篠津村の条に以下の記述が見える。

「村の西北、松林中の小丘なり。土人”先白手(サキシラテ)”と呼ぶ。

 ”先城跡(サキシロアト)”の訛にや伝詳ならず」

的場の件の記述。

「上の廃墟に在りし人の的場なるべし。又、村の西の田中に古墳三個あり。又、南に一個あり。

 土人此地を耕して破壊の甲冑を得る事ありと云へり」

 

かつて諏訪神社の社殿が鎮座した場所の旧字を「的場」と云い、社殿から北に所在した小丘の旧字が

「城跡」であったと云われる。(「的場」は現在の境港市小篠津の小字)

大篠津村には「元屋敷」の旧字が残ることから城主や家臣の居館があったことも伺わせる。

 

城跡に関する遺構は諏訪神社の建立や移転、JR境線の変更や弧線橋の建設などで度重なる改変を受け

そのほとんどが破壊されていると考えられるが、唯一敷地を流れる水路が堀の名残を伺わせる。

 

大篠津村の旧字には掘に関係する地名も多く残り、村内には多くの堀が存在していたと伝えられる。

(「芝川西久蔵堀」「藤兵衛堀」「西外堀」「東外堀」「外堀」「東大堀」「西内堀」 )

【 遠 景 】

諏訪神社跡地(的場)

西側の弧線橋から旧字城跡(中央土盛)

【 概 要 】

名 称先白手城(さきしらてじょう)

別 名:先城(さきしろ)?

所在地:鳥取県米子市大篠津町

築城年:不明

築城主:不明

城 主:尼子氏…安田左近将監

    毛利氏…不明

文 献:伯耆志、伯耆誌、諏訪神社由緒書(社伝)、大篠津町史、和田御崎神社由緒、

    史実と系図 竹内町四百年史(竹内町薬師講保存会:西尾 栄 著)昭和54年7月

形 態:平城

遺 構:堀?

現 状:国有地、原野、諏訪神社跡地

種 類:史跡指定なし(美保基地(米子空港)の航空範囲による危険区域指定)

【縄張り】

存在せず

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

不明

不明

築城年及び築城主は不明。

尼子方の出雲国鈴掛山城鈴垂城)の伯耆国側の支城として当城、

伯耆国高岡城、伯耆国佐斐神城の3城で弓ヶ浜半島から境海峡の

兵站と守備を担ったと云われる。

永禄6年

1563年

1562年(永禄6年)11月5日、尼子方の降将、本城常光が毛利氏に

謀殺されると毛利方に属していた出雲国白鹿城は再び尼子氏へと帰順。

その後、毛利元就に攻められ2ヶ月に渡る戦の末に水源を絶たれた

出雲国白鹿城は開城し落城した。

尼子方の将、松田満久は自刃、子の松田誠保は隠岐へ逃亡したとある。

(出雲国白鹿城は落城と同時に廃城と伝わる)


出雲国白鹿城落城の後、弓ヶ浜半島に駐屯する毛利方の部隊に対し

尼子方の残兵が奇襲を仕掛けるも敗れた事が伝わることから、

この時に毛利方の部隊が在陣した城の一つが当城と考えられる。

天正年間

1573年

1591年

井田藤右衛門の一族で井田家6代目、井田久左衛門が信州諏訪神社の

分霊を勧請し佐斐神に祠を建てて尊崇したと伝わる。(諏訪神社社伝)

この頃の当城についての記述は見られないが毛利氏によって尼子氏が

西伯耆から駆逐された頃に廃城したものと考えられる。

慶安2年

1649年

大篠津、佐斐神、下和田の中央地に当たる旧社地(旧字「城跡」)に

社殿を立て、三ヶ村の大氏神として祀ったと伝わる。

不明

不明

此地を耕作すると古い甲冑が出土したとある。(伯耆志)

昭和17年

1942年

飛行場の障害になるとして、

樹齢600年を越える3本の松「諏訪の松」が中途から伐採とある。

昭和25年

1950年

朝鮮戦争時、米軍によって「諏訪の松」は根元から

切り倒されたとある。

昭和59年

1984年

美保基地周辺整備による危険地域の指定により諏訪神社が移築。

【 写 真 】

旧字「城跡」とされる場所の土盛

土盛は北東に向かって伸びるが最近の改変

所々の樹木は記念樹とあるが手入れは皆無

土盛の下にはアスファルト舗装…

米子空港の滑走路延長のため

既設のJR境線の迂回工事が行われた

南西の弧線橋から旧社殿跡地の眺め

旧社地から南に展開する郭跡?

旧社地から南に展開する郭跡には

重機による改変の跡

旧社殿から東に展開する郭跡?

旧社殿跡地の礎石

城跡が所在したとされる場所の南側から

西側にかけて堀が由来と考えられる水路

水路は北が石垣造りで南がコンクリ造り

現在の諏訪神社

諏訪神社の記念碑

―同好会活動日誌―

お城についての詳細は…

城主に「安田左近将監」という武将が在城した。

と、城主の名前が解る程度で歴史背景は一切不明。

 

尼子氏が支配する頃、出雲国鈴掛山城の支城として伯耆国側の弓ヶ浜半島には

3城(当城、高岡城佐斐神城)があったと伝えられるわ。

 

伯耆志にはこの辺りを耕していたら壊れた甲冑が出てきた…とあるけど、

この辺りには古墳が数基あったみたいで古墳から出土した甲冑なのか、

伯耆山名氏と尼子氏、毛利氏と尼子氏の戦いの頃の甲冑なのか不明みたいね。

 

大篠津町史に名前が出てくるし、地名に「城跡」や堀に関する旧字が残っていて

ここに旧社殿があった諏訪神社さんからも昔は「城跡」と呼ばれる山があったと

教えていただいたので、この辺りに城が存在したことは十分に考えられるわね。

肝心な所が伝わってそうで伝わってないので…推測しかできない城跡だね。

遺構も完全に壊されちゃってるみたいだし。

遺構は諏訪神社の建立や移転、JR境線の改変や弧線橋の建設などを繰り返して

徹底的に壊されているでしょうけど推測ついでに周辺を調べた感じだと…

実は佐斐神城と同じ城域にあったのでは…とも思えるのよね。

 

先白手城は大篠津、佐斐神、下和田の中心部と云われているけど、

面白いことに各村の旧字で「堀」の方位が何処とも被らないの。

 

佐斐神村→「中堀」

大篠津村→「西外堀」「東外堀」「外堀」「東大堀」「西内堀」

和田村→「南大堀」

 

ひょっとすると、この3村に跨って一つの城郭が所在した。。。

と、考えてみるのはどうかしら?

和田村にも旧字で「元屋敷」の地名が残っていたので大篠津村と和田村には

城主や家臣の居館があったかもしれない…と、解けそうで解けない謎が

いっぱいある城跡なので机上の空論だけで楽しむのも面白い城跡かもね。