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HOME > 伯耆古城図録 ~米子市篇~ > 寺内城 > 同好会活動日誌

◆寺内城【訪問日:2013/08/25(再訪日:2013/10/07)】 登城難易度⇒★★★(難)

    【再々訪問日:2014/04/05】 登城難易度⇒★(易)

【 概 略 】

伯耆古代の丘公園」内にある「瓶山古墳群」南西端の丘陵に所在したと伝わる。

城域内には3基の古墳(主郭南端に前方後円墳、南一ノ郭に円墳と方墳)があり、

古墳の高低差を利用した城、あるいは砦が存在したと云われる。

 

1571年(元亀2年)の山中幸盛による第一次尼子再興戦の終盤、尼子方に与した城として登場。

萩藩閥閲録では毛利方の武将、吉川元春が伯耆国末吉城を陥した後、続けて攻め陥とした城と記され

1571年(元亀2年)8月21日に落城したと伝わる。

※ 伯耆国末吉城と同じく、8月18日落城とも云われる。

 

一説には伯耆国末吉城、伯耆国稲吉城と共に大山寺が領した城であったとも云われ、

伯耆国末吉城から敗走してきた山中幸盛が当城に籠もり抗戦したとする話も見られる。

 

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)の縄張図の図示では主郭とされる郭跡の様子は

フラットになっているが実際に主郭とされる郭跡は多段式の連郭式郭跡に見える。

(但し、発掘調査後の造作による現状の可能性もある)

 

城跡は「伯耆古代の丘公園」内に所在するが、他の古墳などの遺跡や施設とは異なり特に管理は

なされていない上、季節によっては茂みにマムシも棲んでいるそうなので公園としては

「できれば一般の方の入場はご遠慮願いたい」とのこと。

維持管理による整備具合によって登城難易度が極端に変わる城跡。

 

当企画は「伯耆古代の丘公園」様のご厚意で下草を刈った直後に連絡を頂き取材をさせて頂きました。

(最終訪問時は運良く全ての草が刈られている状態でした)

【 遠 景 】

公園内(ほたて貝式古墳)からの眺め

北一ノ郭から主郭の眺め

縄張図に詳細な記載は無いが主郭は連郭式?

【 概 要 】

名 称寺内城(てらうちじょう)

別 名:瓶山ノ城(かめやまのしろ)

所在地:鳥取県米子市淀江町福岡

築城年:不明(1571年の第一次尼子再興戦以前の築城)

築城主:不明

城 主:大山寺…不明

    尼子氏…山中幸盛

    毛利氏…不明

文 献:萩藩閥閲録、因伯郷村帳、鳥取藩史、宇田川村史、汗入史網

形 態:丘城(連郭式?)

遺 構:郭跡、腰郭、帯郭、土橋、礎石、五輪塔、櫓台跡?、虎口?、堀?、堀切?

現 状:公園(伯耆古代の丘公園

種 類:史跡指定無し

【縄張り】

寺内城略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

元亀2年

1571年

第一次尼子再興戦では尼子方に属する城として登場。

(大山寺領であったとする説もあり、この場合は尼子方に与した城)

 

6月、毛利方の武将、吉川元春が尼子再興軍の山中幸盛を末吉で破る。

8月、尼子方であった伯耆国末吉城は毛利方の吉川元春によって陥落。

山中幸盛が捕縛された後、吉川元春は続けて当城を攻めたと云われる。

同月21日、吉川元春の攻撃によって当城は落城したと云われる。

(萩藩閥閲録)

※伯耆国末吉城と同じく同月18日の落城であったとも云われる。

 

伯耆国末吉城、伯耆国淀江城、伯耆国稲吉城と共に西伯耆から

尼子氏の勢力が一掃された頃、諸城揃って廃城したと考えられる。

【 写 真 】

郭と郭の境界には堀切のような溝

主郭東側の腰郭付近

主郭南側(古墳マーク北側)には方形区画

方形区画の上には更に方形区画(見張櫓跡?)

主郭南端の前方後円墳は土塁として利用?

主郭から東側の帯郭(要所に土橋が架かる)

主郭から南東側の帯郭

主郭から南東側の帯郭

主郭の西側には腰郭(一部のみ)

主郭の北西側は一部を除き斜面

主郭の南東には虎口?と土塁

虎口(と思われる)周辺には礎石跡

北一ノ郭の北端

北一ノ郭の北端には二基の五輪塔

「冒険広場」付近の登城口(南側腰郭へ)

南側腰郭を通り南一ノ郭へ続く登城道

登城道の途中から南一ノ郭

南一ノ郭の様子

南一ノ郭の西端

南一ノ郭の北端

南一ノ郭の円墳

南一ノ郭の方墳(形の確認はできず)

城跡と公園を隔てる堀

堀から腰郭へ架かる土橋

(おまけ:伯耆古代の丘公園の様子)

向山古墳群を越えると伯耆古代の丘公園

竪穴式住居

四隅突出型墳丘墓

高床建物

ハス池

ほたて貝式古墳

公園内には古墳が点在(割と無造作)

―同好会活動日誌―

萩藩閥閲録では尼子残党の山中幸盛が興した第一次尼子再興戦で毛利方の武将、

吉川元春末吉城を陥落させた後に続けて攻めたのがこの寺内城と云われていて

1571年(元亀2年)8月21日に落城したと記述が見えるわ。

 

地元の史料では…汗入史網で描かれた地図に「古城跡」と記されるだけみたい。

他の資料には寺内城末吉城、稲吉城は大山寺領であったとする記述も見えるわ。

 

異説に末吉城から脱出した山中幸盛が立て籠もった城…という説もあったけど、

他の城の伝承と照らし合わせてみてもこちらは創作かな?