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HOME > 伯耆古城図録 ~米子市篇~ > 富繁城 > 同好会活動日誌

◆富繁城【訪問日:2013/05/26】 登城難易度⇒★☆☆☆☆(易しい)

※富繁城主郭の畑地は個人所有地となります。

【 概 略 】

富繁村の前身、外構(とがまえ)村の集落近くの丘陵に所在したと云われ外構城の別名でも呼ばれる。

この集落から他所へ移住した者が「外構」を屋号に称し、現在も屋号が受け継がれていると云われる。

 

城主の名に伯耆守護の山名澄之が伝えられるが築城年は不明。

福頼藤兵衛の一族による築城と伝わり、丘陵の四周を削った切割を造り、頂部を馴らして主郭とした

単郭の城郭であったとされるが、主郭が所在したとされる丘陵は土砂採取のため平削され現在は

畑地へと改変されている。

採取された土砂は学校のグラウンドなどの造成に使われたとされ、主郭が所在したとされる場所には

1783年(天明3年)に建立されたと伝わる石碑(奉書写寿量品一字一石塔)が残る。

 

1581年(天正9年)の第2次鳥取城攻め(毛利氏×織田氏)で吉川経家らと共に戦い切腹した

但馬山名氏の重臣、森下道誉が在城した城と云われ、そのため富繁周辺には森下姓が多いとも伝えられる。

 

これまでの通説では小規模な単郭の城郭とされているが、近年の調査では主郭の南側や農道を挟んだ

北側の山中にも遺構が広がるとされ、通説とされる城郭の規模が改められる可能性もある。

【 遠 景 】

北側の登城口には案内板が設置

南側からの遠景

【 概 要 】

名 称富繁城(とみしげじょう)

別 名:外構城(とがまえじょう)、亀山城(かめやまじょう)

所在地:鳥取県米子市淀江町富繁

築城年:室町時代~戦国時代

築城主伯耆山名氏福頼藤兵衛の一族)

城 主山名澄之森下道誉

文 献:汗入史網、宇田川村史、御巡見様御廻手鏡、伯耆志、淀江町誌

形 態:丘城

遺 構:郭、堀切、土塁?

現 状:畑地、山林

種 類:史跡指定なし

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

室町時代

戦国時代

不明

伯耆山名氏に仕えた有力豪族(伯州衆)、福頼氏の一族によって築城。

伯耆山名氏に縁のある武将が代々城主を務めたと云われる。

築城したとされる福頼氏の一族は福頼藤兵衛の一族とされる。

廃城の時期は不明。

【写 真】

頂部に主郭が所在したとされる

麓の案内板に詳細が記される

主郭とされる郭跡は土砂採取によって破壊

畑地に改変されている

奉書写寿量品一字一石塔

南側に残された3段の郭跡への入口

改変はここまでのようで入口付近は一段高い

調査報告書に記された残存する3段郭

最上段の郭跡は切岸状で一段高い

2段目の帯郭より最上段の郭跡

最上段の郭跡

最上段の郭跡

2段目の帯郭

2段目の帯郭

3段目の郭跡

3段目の郭跡は広いが藪化が酷い

水取口

(もちろんコンクリは後世の造作物)

戦略的横洞?釜の跡?

登城道下の石垣

登城道下の石垣

城に由来する遺構かどうかは不明

【同好会活動日誌】

残念ながら主郭は破壊済み。

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)では南側に3段の郭跡のみが

残るとされているけど、実は登城道側の道路を挟んだ北側の山中にも遺構が

残ってるらしいよ。(米子市埋蔵文化財センターの方のお話)

あくまで「遺構と思われるもの」らしいけどね。

けど、北側に残る遺構の方がお城にまつわる遺構っぽいみたい。

 

近くに「福頼」の地名が残ることから、福頼氏の居城であった可能性もあって、

伯耆山名氏が権勢を誇っていた頃、伯耆衆の一角として力を持っていた福頼氏に

相応しい規模の城郭があったことも考えられるわね。

羽柴秀吉第2次鳥取城攻め吉川経家中村春続らと共に最後まで抗戦した

但馬山名氏の重臣、森下道誉も在城した城とも云われるよね。

富繁周辺に森下姓が多いのは森下道誉が在城したからとも伝えられるわね。

 

でも、森下氏の一族は代々但馬山名氏の重臣であって、但馬や因幡の方で活躍を

していた一族なのに、なぜ外構の地に森下道誉がやって来て、森下姓が多く

残るほどに一族の者が住みついたのか…ここは不思議に感じるところよね。

築城主に伯耆山名氏配下の福頼氏とあって、その一族が福頼藤兵衛らしいね。

福頼氏は西伯耆でよく名前が出てくるけど、ここで福頼藤兵衛の名前が出てくる

と言うことは、福頼藤兵衛が淀江の福頼出身の福頼氏、とも考えられそうね。

佐陀城杉原景盛討伐の際、月山富田城に居た武将にも名前が出てくるけどね…。