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HOME > 伯耆古城図録 ~米子市篇~ > 淀江城 > 同好会活動日誌

◆淀江城

 

【 概 略 】

薬師山と呼ばれた丘陵に城、あるいは砦(要害とも)が所在したとされる。(汗入史網)

汗入史網では鉄道敷設前の薬師山を城跡としている。

 

伯耆民談記に見える大永の五月崩れでは尼子氏による電撃作戦で落城する伯耆諸城の一つとして登場。

尼子氏が伯耆国を治める頃は大山寺経悟院が領有したとされ、その後も大山寺領とされる。

 

1562年(永禄5年)に本城常光が毛利氏によって謀殺されたことから伯耆国内の諸城が次々と毛利方に反旗を翻すと当城も離反している。

再び毛利氏によって攻略されるが元亀年間、山中幸盛による尼子再興軍が興ると大山寺経悟院の支援によって伯耆国末吉城が毛利方を離反。

伯耆国稲吉城と共に呼応し、伯耆国内での再興軍拠点(伯耆三城)の一つであったと云われる。

 

尼子再興軍が西伯耆、或いは伯耆・因幡両国から駆逐された頃の廃城とする諸説があり、

伯耆民諺記(古今国主統記の項)では山名守行伯耆民談記では淀江福寿(伯耆山名氏配下)、伯路紀草稿では谷威安が城主であったとされる。

 

淀江町史稿には以下の記述が見える。

「御屋敷町に薬師山と称する一小山あり。(中略)頂上に薬師堂あり。本尊薬師如来は大永年中、谷若狭守威安(成安)の寄進に係れりと云う。

 堂は西面して結構荘厳を極め、一条の急硲ありて直に山下に通ず。而して其付近には御屋敷、御蔵屋敷、塚ノ堂、堀などの地名今に残れり。

 是れ蓋し当年の城墟なるべし」

 

現在も御屋敷、堀、塚ノ堂は字名として残る。

【 遠 景 】

稲荷神社の先に薬師山が所在したとされる

薬師山は完全に平削され宅地になっている

淀江城跡として紹介されるJR淀江駅

【 縄張図 】

淀江城略測

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

淀江城所在地推定

汗入史網(昭和12年9月)

※米子市教育委員会 文化財課より転載許可済

【 概 要 】

名 称淀江城(よどえじょう)

別 名:淀井城・与土井城(よどいじょう)、淀要害(よどようがい)、

    淀江ヶ要害(よどえがようがい)

所在地:鳥取県米子市淀江町淀江

築城年:不明

廃城年:1571年(元亀2年)頃※尼子再興軍の西伯耆からの撤退を以って廃城とする説。

    1576年(天正4年)頃※尼子再興軍の伯耆・因幡両国からの撤退を以って廃城とする説。

築城主:伯耆山名氏

城 主:伯耆山名氏…山名守行淀江福寿

    尼子氏…淀江福寿谷威安山中幸盛

    毛利氏…不明

文 献:宇田川村史(大正4年9月:鳥取縣西伯郡宇田川村役場 足立正編)、

    汗入史網(昭和12年9月:国史研究部 本田皎)、日吉山王宮縁記、伯耆民諺記、

    伯耆民談記、伯路紀草稿、淀江町史稿(門脇門治)、大山寺僧慶政勧進簿(写)

形 態:平山城・丘城

遺 構:消滅(JR淀江駅や住宅地開発に伴う造成のため城の所在した薬師山は平削により消滅)

現 状:住宅地、道路、JR淀江駅舎、鉄道線路

種 類:史跡指定なし

登城難易度⇒★(楽)

【 地 図 】

【年 表】

年号 西暦 出来事

不明

不明

伯耆山名氏によって築城されたとあるが一説には簡素な砦が始まりとされる。

大永4年

1524年

尼子氏の伯耆国侵攻によって落城。(大永の五月崩れ)

伯耆民諺記(古今国主統記の項)では山名守行伯耆民談記では淀江福寿

伯路紀草稿では谷威安が城主であったとされる。谷威安については日吉神社縁起書にも記述が見える。

大永5年

1525年

当地に要害が存在したとある。(大山寺僧慶政勧進簿

天文4年

1535年

大永5年に要害が存在したと記される。(大山寺僧慶政勧進簿

永禄5年

1562年

毛利氏が西伯耆を平定すると伯耆国内の諸勢力は競って尼子方から離反し毛利方の傘下へ移ったとある。

同年11月5日、本城常光の謀殺をきっかけに伯耆国尾高城など西伯耆の諸城が再び毛利氏から離反すると

当城も再び尼子方へと帰順している。その後、再び毛利氏によって攻略されている。

永禄12年

1569年

山中幸盛らが尼子再興軍を旗揚げ。

大山寺経悟院の支援を受けた伯耆国末吉城が毛利方を離反すると伯耆国稲吉城と共に呼応し

尼子再興軍の拠点(伯耆三城)の一つとなったとある。

元亀2年頃

1571年頃

西伯耆から尼子再興軍の勢力が一掃された頃、伯耆国末吉城、伯耆国寺内城、伯耆国稲吉城など諸城と併せて廃城とされる。

天正4年頃

1576年頃

5月、山中幸盛ら尼子再興軍は因幡国若桜鬼ヶ城を放棄し撤退。

尼子再興軍の勢力が伯耆・因幡両国から排除された頃の廃城とする説もある。

明治34年

1901年

薬師山は明治時代に入ると次第にならされ、明治34年に山地は崩れ姿を消したとある。(淀江町史稿)

大正3年

1914年

11月、停車場へ続く道を新設するため民家6戸を撤去したとある。(汗入史網)

【写 真】(訪問日:2013/05/26、2014/11/03)

駅前の大通り(旧停車場道)

大正3年11月に民家6戸を撤去して造られた

駅前の大通り(旧停車場道)

左手が字御屋敷・右手が字塚ノ堂

字御屋敷の様子

字御屋敷の様子

駅前の大通りから字塚ノ堂へ

字塚ノ堂は「堀町」や「堀通り」とも呼ばれる

字塚ノ堂の様子

薬師寺小路

字堀の様子

字堀の様子

字堀の小路

堀は宇田川を利用したものか?

旧国道

稲荷神社を汗入史網では「稲荷神社跡」としている

稲荷小路

―同好会活動日誌―

淀江城は明治34年には既に消滅したと記述が見えるわね。

字名に「御屋敷」「堀」「塚ノ堂」が残っているようだけど、「淀江町史稿」にあった「御蔵屋敷」の字名はどこか判らなかったわ。

地元の人に聞いたところ、字名「塚ノ堂」の辺りは堀があったみたいで「堀町」「堀通り」なんて云われているみたい。

結局、徹底的に薬師山が崩されているので面影は一切ないけど、字御屋敷や字堀の辺りは少しだけ城下町っぽい感じがするわね。

…城下町があったかどうかはわからないけど。

一番初めに訪れた時、全く城跡についての情報が集まらなかったけど、

実は情報を聞いた場所は城跡の場所から少しはずれていたんだよね。。。

なので、今回は字名の場所に住んでいる方にお話を聞けて、ほんの少しだけど城跡の情報が手に入ったよ。

よく見かける淀江城の紹介では「JR淀江駅」周辺としているけど、

実際は少し街中に入ったところにあったみたいね。

少し城跡とは離れるけど、淀江公民館には尋常小学校の門跡や稲荷神社と稲荷小路などがあるので、

城跡だけでは物足りない人はついでに訪れてみるのも良いかもしれないわね。

その他にも淀江には歴史的に面白い場所が多かったりするので。