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HOME > 伯耆古城図録 ~米子市篇~ > 米子城 > 同好会活動日誌

◆米子城

【訪問日:2013/03/23】 登城難易度⇒★★☆☆☆(普通)

【 概 略 】

吉川広家が出雲国月山富田城に代わる居城とするため、配下の古曳吉種に命じ新たに湊山へ築城を開始した城郭が伯耆国米子城の始まりとされる。

 

島津又七郎家久の伊勢参詣道中記を記した「中務大輔家久公御上京日記」では、1575年(天正3年)6月21日に

「廿一日、打立、未刻に文光坊といへるに立寄やすらひ軈而大仙に參、其より行て緒高といへる城有。其町を打過、よなこといへる町に着、豫三郎といへるものの所に一宿」

と記されているが町の存在は伺わせるものの城砦の存在が確認できない。

 

一説には吉川広家の父、吉川元春の頃から湊山への築城計画はあったとされるが、現在の湊山と飯山の高さを比べても主郭として相応しいのは湊山の方であり、元々飯山城が湊山に築城されていたとも考えられる。

とするのは当時、飯山と湊山を併せた山をして”飯山”と呼ばれていたようで湊山の名称は後に大山寺の僧、豪円によって名付けられたとされる。

 

吉川家文書には”米子城”の名称は見えないものの、吉川広家が関ヶ原の戦いへと臨む際に6割の兵を城下に集めたとも記されており、湊山(飯山)に城が存在していたことは伺える。(散見する「吉川家古文書に米子城の記述が見えない」とする説は誤りとしたい)

 

伯耆民談記では伯耆国倉吉城(打吹城)や伯耆国尾高城(或いは伯耆国小鷹城)から移築したとも伝える書物もあるが信憑性は低い。

また、久米城と呼ばれる所以として人柱となった娘の名前の他、久米郡の伯耆国岩倉城の天守を移築したとする伝説もある。

 

通説となっている吉川広家の築いた小天守も中村一忠横田村詮が建てた櫓とする説もあり、今後の研究によっては通説がひっくり返る可能性が残る。

 

城郭は湊山頂上の本丸、北東山腹の二ノ丸(現:テニスコート)、北東山麓の三ノ丸(現:湊山球場)、北尾根の内膳丸(丸山)、国道9号線を挟んだ東の飯山(現:英霊塔)などで構成されている。

 

中海から海水を引き込んで作られた堀は防衛力強化を図りつつ、城下町の流通の効率化を図った水路としても設計されており、執政家老横田村詮の城下町建造における辣腕振りを伺わせる。

 

本丸や内膳丸の石垣を始め、南東の桝形虎口(鉄御門)、西の水手御門など多くの遺構が残る。

【 米子城イメージキャラクター:吉川 湊(きっかわ みなと) 】

【湊の一言メモ】

米子城は智将、吉川広家がこれまでの居城、

出雲の富田城の代わりとなる城として築城を

計画したのが始まりみたいだよ。

 

工事が上手くいかず町娘を人柱にしてみたり、

米子の町造りに尽力した執政家老を殺したり、

最期は暖を取るため、お城を薪にしてみたり…

悲劇のお城、不運のお城、って言われるけどさ、

1615年の一国一城令を機に伯耆国内のお城が

次々と壊される中、この米子城だけは例外的に

廃城を免れる事のできた幸運のお城なんだよ。

 

それに築城後は戦火に一度も逢わなかった事も

幸運のお城と名乗ってもいいのじゃないかな?

あ、内乱は一度だけあったけどさ。

 

せっかく綺麗な石垣も残っているんだし、

もう少し観光地っぽくしても良いんじゃないの?

 

最期はお風呂の焚き木だって!?

ま、それもしゃーなしだよね~

illustration:moric

【 遠 景 】

本丸の石垣

本丸の天守跡

内膳丸

桝形虎口

右上の屋敷は旧小原家長屋門

【 概 要 】

名 称米子城(よなごじょう)

別 名:湊山城(みなとやまじょう)、久米城(くめじょう)

    湊山金城・湊山錦城(みなとやまきんじょう)

    中村一忠が建造した新天守の姿は摂津国大坂城を模した天守(劣化コピー)となっており、

     「湊山の大坂城」として大坂城の別名である金城、或いは錦城の名が記されたと考えられる。

所在地:鳥取県米子市久米町

築城年:1591年(天正19年)着工、1602年(慶長7年)完成

築城主吉川広家(三重天守の建造と城郭の基礎整備。城郭の整備は吉川元春の発案とも)

    中村一忠横田村詮と共に四重五層天守などの建造し、城郭を完成)

城 主:吉川氏…吉川広家

    中村氏…中村一忠

    加藤氏…加藤貞泰

    徳川氏…阿部正之

    池田氏…池田由之池田由成

    荒尾氏…荒尾成利荒尾成直荒尾成重荒尾成倫荒尾成昭荒尾成昌

        荒尾成煕荒尾成尚荒尾成緒荒尾成裕荒尾成富

天 守:小天守:型不明(1596年)⇒後の独立式望楼型三重四層の四重櫓。吉川広家によって建造。

    大天守:独立式望楼型四重五層(1602年)⇒中村一忠横田村詮によって建造。

文 献:伯耆志、伯耆民談記、戸田幸太夫覚書、泉州堺広普山妙國寺2世日統上人本尊(慶長7年)

形 態:梯郭式平山城

遺 構:石垣(修復)、土塁、郭、堀、虎口、井戸、礎石、城門

現 状:山林、丘陵、公園、市街地、テニスコート、球場

種 類:史跡(市指定文化財:昭和52年指定、国指定文化財:平成18年1月26日指定)

    ※1982年(昭和57年)~1984年(昭和59年)にかけて石垣の修復を実施

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

天正3年

1575年

京都より薩摩へと戻る島津家久の一行が米子を通過したとある。(中書家久公御上京日記)

 

但し諸説あり、訳し方によっては「よなこといへる”町”」となり、この頃の米子に「町」が形成されていた根拠とされる。

 

別の文献では中村一忠が転封された頃、米子に大名が住めるような居館どころか町すら無かったとされ(伯州会見郡米子庄とある)、そのため城が完成するまでの間、伯耆国尾高城を居城にしたとある。

(中村記、泉州堺広普山妙國寺2世日統上人本尊)

天正19年

1591年

吉川元春の三男、吉川広家古曳吉種に湊山への築城を命じる。

築城奉行は祖式九右衛門

12月、吉川広家が米子の城下町を14の区に区切ったとされる。

※この説は1575年(天正3年)に町が存在した場合と考えられる

天正20年

1592年

吉川広家古曳吉種とともに唐入りのため朝鮮半島へ出征。 古曳吉種はこの年、文禄の役にて戦死。

慶長3年

1598年

吉川広家が出雲国富田城へ戻ると中断していた湊山の築城を再開。

同時に米子港の整備も始まったとされる。

慶長5年

1600年

9月15日、関ヶ原の戦いが始まる。

毛利輝元が総大将を務めた西軍は関ヶ原の戦いに敗れる。

西軍に属し東軍へ内通していた吉川広家は毛利家存続のため奔走し

毛利家改易の危機を乗り切るが毛利家と共に岩国へ転封が決まる。

吉川広家が去るまでに築城の進捗具合は7割程度で天守のみは

完成していたとされる。(吉川家文書「戸田幸太夫覚書」より)

関ヶ原の戦いでの功績により中村一忠が伯耆国領主となる。

慶長6年

1601年

吉川広家が岩国へ出発。

伯耆国米子城を去る前、伯耆国七尾城の麓に鎮座する阿陀萱神社へ

米子城主として寄進を行っている。(阿陀萱神社由緒書)

慶長7年

1602年

中村一忠、執政家老の横田村詮と共に伯耆国米子城を完成。

それまで居城としていた伯耆国尾高城から伯耆国米子城へと移る。

同時に米子港の整備と城下町を整え、商都米子の礎を築く。

慶長8年

1603年

中村一忠横田村詮を誅殺。

横田村詮の子、横田主馬助を総大将に横田家の遺臣二百余名と

客将の柳生宗章らが飯山城に立て籠もり抵抗。(米子城騒動

中村一忠の救援要請を受けた出雲国富田城の城主、堀尾吉晴親子の

援軍が到着すると翌日に騒動は鎮圧された。

※横田勢が立て籠もったのは丸山の内膳丸であったする説もある

慶長9年

1604年

中村一忠の側近、安井清一郎天野宗把は騒動の首謀者とされ、

一切の取調べもなく反逆罪として即刻切腹を命じられた。

天野宗把は打ち首。

同じく正室の世話係であった道上長衛門道上長兵衛

役務怠慢の咎により江戸にて切腹に処された。

中村一忠は品川宿止めの謹慎に留まり、お咎め無しとされた。

慶長14年

1609年

中村一忠、20歳(史料によっては19歳)で急逝。

中村家は嫡男無しとして改易される。

慶長15年

1610年

美濃国黒野城の城主、加藤貞泰大坂の陣の戦功として米子に転封。

元和元年

1615年

幕府の一国一城令により、当初は因幡国・伯耆国の両国で一城と

されていたようだが因幡国・伯耆国それぞれに一城が認められ、

伯耆国米子城は破却を免れる。(例外的な措置であったと云われる)

元和3年

1617年

加藤貞泰、伊予国大洲に転封。

元和3年

1617年

7月25日、江戸幕府の命により阿部正之が監使として伯耆国入。

加藤貞泰から米子城を受け取り在番したとある。(西伯郡自治史)

元和3年

1617年

伯耆・因幡の全てが池田光政の所領となり、池田光政の一族、

池田由之が米子城預りとなる。

元和4年

1618年

3月、池田由之が怨恨から大小姓の神戸平兵衛に殺害される。

神戸平兵衛は切腹、平兵衛の子も死罪となった。

池田由之の子、池田由成が米子城預りとなる。

寛永9年

1632年

池田光政の岡山国替により池田光仲が鳥取藩主となる。

家老で下津井城主の荒尾成利が米子城預りとなり、

弟の荒尾成政を米子に派遣し城の管理をさせる。

承応元年

1652年

鳥取藩主、池田光仲との対立から荒尾成利は隠居を命じられる。

荒尾成直(二代目)が米子城預りとなる。

寛文5年

1665年

堀の防衛機能に害を及ぼす(埋没の恐れ)とのことから、

内堀への柴積船の入船が禁止される。

寛文7年

1667年

城郭西北部の外郭を修繕。

延宝7年

1679年

荒尾成重(三代目)が米子城預りとなる。

元禄5年

1692年

荒尾成倫(四代目)が米子城預りとなる。

元禄10年

1697年

大風により本丸の四重櫓が1尺5寸(約45cm)程度傾く。

享保5年

1720年

三ノ丸の米蔵の約半数を修理。

享保19年

1734年

荒尾成昭(五代目)が米子城預りとなる。

延享4年

1747年

荒尾成昌(六代目)が米子城預りとなる。

寛延元年

1748年

荒尾成熈(七代目)が米子城預りとなる。

宝暦13年

1763年

米子城修覆米積立法を制定。

天明7年

1787年

荒尾成尚(八代目)が米子城預りとなる。

寛政8年

1796年

城下外郭筋堀の埋没解消のため浚渫を行う。以後、富豪町人が受注。

文化3年

1806年

伊能忠敬が米子町測量を行うも、米子の役人(荒尾家の家人)が

城郭内の測量を拒否。(第一次測量)

文化10年

1813年

伊能忠敬の第二次測量が行われる。

第一次測量の時とは一転、測量隊は藩を上げての歓迎を受けた。

文政元年

1818年

荒尾成緒(九代目)が米子城預りとなる。

嘉永4年

1851年

荒尾成裕(十代目)が米子城預りとなる。

嘉永5年

1852年

四重櫓とその石垣が富豪鹿島家の負担により大修理される。

慶応3年

1867年

荒尾成富(十一代目)が米子城預りとなる。

明治2年

1869年

2月、荒尾成富自分手政治の廃止を通告。

5月、朝廷より米子城返上の命令が下る。

8月、米子城を藩庁へ引き渡す。

明治5年

1872年

城は城山ごと大四大隊の士族小倉直人らに無償で払い下げられた。

明治6年

1873年

城内の建物類が切り売りされ始める。

明治8年

1875年

士族らが城の維持に窮し、土地・建物を当時の金3,500円で

米子町に買取を要請するも買い手はつかず不成立となり、

引き続き切り売りが行われる。

明治9年

1876年

9月、山本良種が米子で写真業を開業。

写真として残っている米子城の姿はこの頃に撮影されたとある。

明治12年

1879年

天守などは尾高町の古物商山本新助が当時の金37円(30円とも)

で買い取ったとされる。

(諸説あるが明治9年、明治13年の出来事であったともされる)

明治13年頃

1880年頃

米子城、石垣を残して取り壊される。

【 写 真 】

枡形門跡と虎口

枡形門跡を抜けると旧小原家長屋門

旧小原家長屋門

米子市内で現存する唯一の武家屋敷の建物

二ノ丸横の御殿御用井戸跡

二ノ丸から本丸へ続く登城道

内膳丸へ

内膳丸の平入虎口

内膳丸は二段の郭で構成

内膳丸と東屋

内膳丸は丸山にあるので丸山城とも呼ばれる

※但し、一般的ではない

内膳丸の石垣

内膳丸の石垣

内膳丸の石垣

内膳丸の石垣

内膳丸向かいの山の中腹にある腰郭の石垣

内膳丸向かいの山の中腹にある腰郭の石垣

天守へ通じる虎口

天守へ通じる虎口

鉄御門の虎口

鉄御門の虎口

番所跡から見上げる本丸の石垣

鉄御門を守った番所跡

遠見櫓跡への道

平櫓と二重櫓があった遠見櫓跡

遠見櫓跡から本丸の眺め

遠見櫓跡から水手御門方面へ

水手御門跡

水手御門跡

中海側からの備えとした郭

柱跡の残る礎石

主郭の中村天守跡

主郭の中村天守跡

中村天守跡

中村天守跡

主郭

主郭からの米子市内の眺め

主郭からの中海の眺め

主郭からの飯山の眺め

右上に見える郭跡が小天守の郭跡

中村天守跡の排水設備

主郭石垣

矢穴の残る石垣(割ることを断念したもの)

矢穴の残る石垣(割ることを断念したもの)

矢穴の残る石垣(割ることを断念したもの)

矢穴の残る石垣

(一度は綺麗に割れたが二度目はあきらめた?)

矢穴の残る石垣(綺麗に割れてます)

矢穴の残る石垣(綺麗に割れてます)

矢穴の残る石垣(綺麗に割れてます)

矢穴の残る石垣(綺麗に割れてます)

二ノ丸の裏御門跡

裏御門跡の石垣

中海側登城道の礎石

枡形門跡付近の五輪塔?

オカリナ石と呼ばれる失敗作&放置

熊の足跡にも見える可愛い階段礎石

【同好会活動日誌】

あたし達の企画では米子城飯山城を敢えて分けているよね。

米子市では飯山城(飯山砦)米子城を併せて米子城としているけど、

歴史や出来事を調べていくと同じ城として扱うには不都合があると考えたので…

私たちの企画では米子城飯山城は別の城として扱うことにしているのよ。

※平成26年1月の加筆修正においてこれまでの同好会活動日誌も大幅削除しました

伯耆民談記倉吉城、或いは小鷹城から天守を移築した。

あと、久米郡の岩倉城を移築した。。。

って記述があるんだけど、ホントなの?

吉川広家の小天守を指すと思うけど、これは限りなく創作に近い話でしょうね。

あと、伯耆国尾高城からも天守を移転したという説があるわよ…。

 

倉吉城打吹城の別名だから打吹城のことだと思うけど、こちらは吉川氏との

接点がほとんどないお城だから結びつけるのは難しいかもしれないわね。

岩倉城もその点から微妙なところ。

 

小鷹城は地理的にも吉川広家の居城、月山富田城米子城を中継する重要な城で、

更に米子城の落城の場合を考えて隠し砦まで造っていたと云われる城なので、

小鷹城からの移築説の信憑性は打吹城に比べると高いかもね。

 

けど、隠し砦の情報は吉川広家が岩国に移封された後も長年にわたって

秘匿され続けていたそうなので…その関係性を知る人が知り得た情報から

創作して書かれたのかも知れないわね。

 

もしも関連性があると考えるのなら「移築した」とするよりも「模して作った」

くらいの程度じゃないかしら?

他に米子城にまつわる有名な話って何かある?

一国一城令による廃城を免れたお城なんだし、ドラマの一つもあるんでしょ!

お城についての一番有名な話は…1880年(明治13年)頃、お城が解体されると

冬場の暖を取るための焚き木にされたり(町中の至る所で燃やされたそうよ…)、

銭湯(風呂屋)の薪としてタダ同然で売り払われた話じゃないかしら?

冗談みたいな話だけど、米子町民の性格を表現する時に真っ先に出る話よ。

 

他には…

米子城が「久米城」の別名で呼ばれる由縁となった「お久米の人柱伝説」

・柳生一族の柳生宗章が謀殺された横田村詮の恩義に報いて奮戦する「米子城騒動」

この2つがお城にまつわる話としては有名かしら。

お久米の人柱伝説」は後の河童伝説にも繋がったり、

「米子城騒動」の戦いは飯山城の話とされるけど、内膳丸という説もあるから…。

米子城は最後に37円で売られちゃったけど、今だとどれくらいの価値なの?

この当時(明治初期)の1円は現在の10,000円~25,000円の価値があったそうよ。

尾高町の古物商、山本新助が当時の金37円(30円とも)で買い受けたとあるから

単純に掛けると37万円~92.5万円程度になるかしら。

ちなみに士族が町に買取を迫った3,500円だと現在の3,500万円~8,780万円程度。

凄いディスカウント率なんだけど、それだけの値段しか付かなかったことを思うと

ちょっと悲しいわよね。

伊能忠敬の測量を米子の役人(荒尾家の家人)が邪魔しているよね。

1806年(文化3年)の伊能忠敬測量隊による第5次測量(伯耆第1次測量)の話ね。

米子城周辺の測量を妨害した事が記録に残っているわ。

けど、7年後の1813年(文化10年)の第8次測量(伯耆第2次測量)では

これまで測量を行った各地において測量隊の評判が高まっていた事もあって、

この調査では藩を上げて伊能忠敬の測量隊を歓迎し測量に協力しているわ。

池田家の役人も測量隊へ最大の賛辞を送っているそうで…

この辺は有名人には甘く媚びる県民性が垣間見える出来事よね。

 

あ、説明で伯耆第○次測量としてるけど、伯耆を調べることがメインではなくて、

2度に分けて伯耆を測量した便宜上、伯耆第1次、伯耆第2次としているの。

ちなみに第5次は近畿と中国、第8次は九州の測量がメインなのよ。