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HOME > 伯耆古城図録 ~米子市篇~ > 米子城

◆米子城

【 概 略 】

1591年(天正19年)、 豊臣秀吉より出雲3郡・伯耆3郡・安芸1郡及び隠岐一国の14万石(西伯耆、出雲、備後など12万石とも)を認められ、出雲国月山富田城に入ることを命じられた吉川広家が政庁として相応しい機能を備えた居城を必要としたため幾つかの候補地から選び、配下の古曳吉種に命じ新たに湊山へ築城が開始された城郭が当城の始まりとされる。

(当城の前身とされる飯山の城砦については伯耆国飯山城の項に記載)

 

伯耆民談記では吉川広家の父、吉川元春の頃(天正年間)から出雲国月山富田城を本城とし湊山への築城計画が進んでいたことが記述に見え、代官として古曳吉種飯山城に在城し、湊山に城砦が完成すると古曳吉種は当城へ移ったとある。

 

吉川元春が築城を開始したとする説を採る場合、島津家久の伊勢参詣道中記を記した中務大輔家久公御上京日記では伯耆国尾高城の存在は明記されているが、米子には町の存在を伺わせるものの城砦については触れられておらず存在の確認ができないことから1575年(天正3年)6月以降と推定される。

 

中務大輔家久公御上京日記(1575年(天正3年)6月21日)

「廿一日、打立、未刻に文光坊といへるに立寄やすらひ軈而大仙に參、其より行て緒高(尾高)といへる城有。其町を打過、よなこ(米子)といへる町に着、豫三郎といへるものの所に一宿」

 

伯耆民談記 湊山城の条

「昔は此山に城なくして飯ノ山にあり。古戦書に云ふ米子城は多くは飯山城の事也。当城は吉川元春天正年中に雲州富田を本城として築き玉へる処の城也と云ふ。故有て湊山久米城と云ふ。山名治部大輔之秀飯山城に於いて自害し、其の後吉川領と成りて(吉川)元春代官として古引長門守吉種暫く在城す」

 

伯耆民談記 古引長門守吉種米子居城並本教寺草創事の条

山名治部大輔之秀亡命の後、(吉川)元春より飯山へ据え置かれ。其後、湊山他成りて飯山を転じて湊山に在城す。(吉川)広家の下知にて伯州代官となり食地六万石を賜ふ」

 

古引吉種飯山城から米子城へ移る記述では現在の飯山(英霊塔の屋敷跡)から湊山(米子城本丸旧天守)へ移ったとするかは不明。

伯耆民談記の記述を頼れば飯山の城砦は湊山(お立山)を除いた飯山(当時は現在の飯山、湊山、丸山、出山を総称して”飯山”と呼称していた)の何れかに城郭が所在したと推測される。(湊山の名称は築城の際、大山寺の僧、豪円によって名付けられたとされる)

 

郷土史「成美の歴史」(昭和61年発行)では古市の牧野家に伝わる「牧野家古文書」などの引用から古引吉種を築城に長けた人物と評しており、自身の居城で水濠を利用した伯耆国石井城石井要害)を参考に、当城の築城についても同じく水濠要塞としての設計を行なったとしている。

近年発掘された登り石垣の存在からも水軍の運用を想定した海城であることが推測できる。

 

吉川家文書に”米子城”と名称は見えないものの、吉川広家が関ヶ原の戦いへと臨む際に6割の兵(※)を城下に集めたと記されており、湊山(飯山)に城が存在していたことが伺える。

※この解釈には異説があるようで、吉川広家が関ヶ原の戦いで不在の際、築城奉行の祖式九右衛門が築城のため住民を6千人動員したとする説もある。

 

築城に当たっては伯耆国倉吉城(打吹城)尾高城(或いは伯耆国小鷹城)から移築したとも伝える書物もあるが、建材を再利用した程度に留まると考えられる。

また、久米城と呼ばれる所以として人柱となった娘の名前の他、久米郡の伯耆国岩倉城の天守を移築したとする伝承も見える。

 

吉川広家の頃に築かれたとされる小天守も櫓の部分は中村一忠横田村詮によって改築・改装され石垣のみ当時のものと考えられている。

別名に湊山錦城と記されるのは中村一忠が建造した新天守の姿が摂津国大坂城を模した天守(劣化コピー)となっており、「湊山の大坂城」として大坂城の別名である金城、或いは錦城が記されたものと考えられる。

 

城域は湊山頂上の本丸、北東山腹の二ノ丸(現:テニスコート)、北東山麓の三ノ丸(現:湊山球場)、北尾根の内膳丸(丸山)、国道9号線を挟んだ東の飯山(現:英霊塔)、西の出山などで構成されている。

 

加茂川を利用した外堀と中海から海水を引き込んで作られた内堀の二重の堀は防衛力強化を図りつつ、同時に城下町流通の効率化も図った水路としての設計がなされており、執政家老の横田村詮が前任地の駿府で培った城下町整備の手腕が存分に発揮されている。

 

本丸や内膳丸の石垣を始め、内膳丸から遠見櫓へ伸びる登り石垣、南東の桝形虎口、鉄御門や裏御門など多くの遺構が残る。

 

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの功績により中村一忠が伯耆国に入り、1602年(慶長7年)に当城が完成とある。

 

1609年(慶長14年)、中村家が断絶されると翌年の1610年(慶長15年)、大坂の陣の功績により加藤貞泰が六万石で移封されている。

 

1617年(元和3年)、加藤貞泰が伊予国大洲へ移封されると以後は池田氏の統治となり、1632年(寛永9年)から家老の荒尾氏が代々当城を管理したとされる。(1631年(寛永8年)からとする説もあり)

 

1872年(明治5年)に廃城となり、1880年(明治13年)頃までには石垣を残して建物は取り壊されたとある。

 

取り壊された建物は風呂の薪にされたと広くに語られるが、この説は1933年(昭和8年)3月から数日に渡って米子毎夕新聞に掲載された「米子城捨売り秘話」が初見であり、新聞という媒体であったため多くの市民の目に止まったことから一般的な説としてこの頃から語られ始めたと考えられる。

 

1958年(昭和33年)4月に発行された火野葦平の小説、百年の鯉に「蛇體新助」という話が収録されており、最終的に米子城の材木を風呂屋の薪として売り払った話が描かれている。この話は米子城捨売り秘話との共通点が多く元にしたと考えられ、作者の火野氏も創作であると語ったとされる。

この本の発刊された頃から米子城が風呂の薪にされたという説が急速に広まり定説化したものと推測される。

 

米子城の建物については大天守の望楼が風雨により腐食し戸板で覆われていたこと(現存する古写真より)などからも、風雨で朽ちたりして再利用に耐えない木材などについては燃やされたと考えるのが自然である。風呂屋の薪になった以外にも暖を取るため道端で燃やされたとする古老の話も伝わる。

使える建材(資材)は極力再利用する古くからの精神は明治時代も受け継がれていたことが伝わっており、現在に語られる全ての木材が風呂屋に売られ薪にされたとするのは当時の風習と照らし合わせても合致しない。

現在も米子市や南部町の古民家や商店の柱や梁、寺の山門や日吉津村の個人宅に移築された門など米子城の建材を転用したと伝わる造作物が残っている。

【 遠 景 】

市内からの遠望

市内からの遠望

三の丸の遠望

小原家長屋門

【 概 要 】

名 称米子城(よなごじょう)

別 名:湊山城(みなとやまじょう)、久米城(くめじょう)、湊山金城・湊山錦城(みなとやまきんじょう)

所在地:鳥取県米子市久米町

築城年:1591年(天正19年)着工、1602年(慶長7年)完成※異説に天正3年以降着工の説もあり

廃城年:1872年(明治5年)頃

築城主

吉川広家(三重天守の建造と城郭の基礎整備。城郭の整備は吉川元春の発案とも)

【小天守:型不明(1596年)⇒後の独立式望楼型三重四層の四重櫓】

中村一忠横田村詮と共に四重五層天守などの建造し、城郭を完成)

【大天守:独立式望楼型四重五層(1602年)】

城 主:(吉川氏)吉川広家古曳吉種関祐諸加藤月岑(中村氏)中村一忠(加藤氏)加藤貞泰(徳川氏)古田重治一柳直盛西尾光教阿部正之(池田氏)池田由之池田由成(荒尾氏)荒尾成利荒尾成直荒尾成重荒尾成倫荒尾成昭荒尾成昌荒尾成煕荒尾成尚荒尾成緒荒尾成裕荒尾成富

形 態:梯郭式平山城、海城

遺 構:石垣※、登り石垣、郭跡、土塁、切岸、竪堀、水濠、虎口、井戸、礎石、城門他

※1982年(昭和57年)~1984年(昭和59年)にかけて石垣の修復を実施

現 状:山林、丘陵、公園、市街地、テニスコート、湊山球場、道路、鳥取医大

種 類:史跡(市指定文化財:昭和52年指定、国指定文化財:平成18年1月26日指定)

【参考文献】

・伯耆志・伯耆民談記・戸田幸太夫覚書

・泉州堺広普山妙國寺2世日統上人本尊(慶長7年)

・米子毎夕新聞(昭和8年3月:山陰毎夕新聞社)

・百年の鯉(昭和33年4月:火野葦平 筑摩書房)

・成美の歴史(昭和61年3月25日)

【城娘】

【 縄張図 】

米子城略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

天正3年

1575年

天正19年

1591年

天正20年

1592年

慶長3年

1598年

慶長5年

1600年

慶長6年

1601年

慶長7年

1602年

慶長8年

1603年

慶長9年

1604年

慶長14年

1609年

慶長15年

1610年

元和元年

1615年

元和3年

1617年

元和3年

1617年

元和3年

1617年

元和4年

1618年

寛永9年

1632年

承応元年

1652年

寛文5年

1665年

寛文7年

1667年

延宝7年

1679年

元禄5年

1692年

元禄10年

1697年

享保5年

1720年

享保19年

1734年

延享4年

1747年

寛延元年

1748年

宝暦13年

1763年

天明7年

1787年

寛政8年

1796年

文化3年

1806年

文化10年

1813年

文政元年

1818年

嘉永4年

1851年

嘉永5年

1852年

慶応3年

1867年

明治2年

1869年

明治5年

1872年

明治6年

1873年

明治8年

1875年

明治9年

1876年

明治12年

1879年

明治13年頃

1880年頃

石垣を残して全ての建造物が取り壊される。

【 写 真 】(訪問日:2013/03/23、2016/09/24、10/10)

枡形(門)虎口が二ノ丸への入口

枡形門跡を抜けると旧小原家長屋門

二ノ丸横の御殿御用井戸跡

御殿御用井戸跡

井戸横(二ノ丸)から本丸へ続く登城道

番所跡の虎口

番所跡の虎口

番所跡

鉄御門

鉄御門の石垣

番所跡から大天守台

大天守から鉄御門の虎口

鉄御門の虎口にある矢穴の残る岩

番所跡から大小天守台

遠見櫓

遠見櫓の郭跡

遠見櫓の郭跡

遠見櫓直下から内膳丸方向への登り石垣

天守台と遠見櫓の間の帯郭

天守台と遠見櫓の間の帯郭

水手御門

水手御門と水手郭跡

水手御門と水手郭跡

大天守

大天守

大天守から市内の眺め

大天守から中海の眺め

登り石垣を開削した門跡

遠見櫓側の登り石垣

遠見櫓側の登り石垣

遠見櫓側の登り石垣(土塁上部)

遠見櫓側の登り石垣

遠見櫓側の登り石垣(土塁上部)

内膳丸側の登り石垣

内膳丸側の登り石垣

裏御門跡

裏御門跡の石垣

裏御門郭跡

湊山山中には幾つか湧き水がある