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古曳長門守吉種(こびき-ながとのかみ-よしたね)

【氏】不明【姓】不明【名】古曳【通称】長門守【諱】吉種

【別名】木引吉種、古引吉種(こびき-よしたね)

【所属】尼子氏⇒毛利氏(杉原氏)⇒吉川氏

【官位】長門守

【出身】不明

【生年】不明

【没年】1592年11月24日(文禄元年)

吉川氏の家臣。伯耆国石井要害、伯耆国戸上城、伯耆国飯山城に在番し、伯耆国米子城の城代を務めた人物。

天正年間、吉川広家の被官として3万石を拝領し会見郡を治めたとされる。(異説には西伯耆6万石とも)

 

元は尼子氏に仕えた武将であったが1564年(永禄7年)、尼子氏と毛利氏による伯耆国手間要害周辺での戦の大勢が毛利方に傾いた頃、毛利方に与し杉原氏の臣下となっている。

 

1566年(永禄9年)、戸上城に在番とあるが1571年(元亀2年)、尼子再興戦によって一時落城とある。

 

1582年(天正9年)1月頃、杉原盛重が死去すると吉川広家の臣下となった。

 

1588年(天正16年)、戸上城石井要害(石井城)を管理、米子城飯山城)の城代として3万石を拝領し口会見を治めた。

 

1589年(天正17年)、米子城の城域内(現在の城山大師向かいの医療施設周辺が字名浄昌寺)に母、浄昌院の菩提寺となる覚応院浄昌寺を建立。

湊山と飯山の中間ほどに立地し、砦としての機能を持たせたと推定される。

 

1591年(天正19年)、吉川広家が出雲、隠岐、西伯耆の3郡を領すると吉川広家の被官となり、戸上城の城主として在番し会見郡を治めたとある。一説にはこの頃に6万石を拝領していたとする。

同年、米子城の築城(拡張)命令を受け築城奉行の山県九左衛門と共に設計に着手している。

 

1592年(天正20年、文禄元年)、唐入りのため朝鮮半島へ出兵。

同年11月24日、現地にて戦没とされる。

 

戦場へ出る時は仏像を背負って戦に臨んだとされ、この仏像が覚應山本教寺の本尊と云われる。

覚應山本教寺には朝鮮半島での討死について記録が残る。

「文禄元壬辰年、太閤秀吉公に従名、同十一月朝鮮国に於いて討死」

 

戦没後、覚応院浄昌寺は灘町北東の高砂付近に移され、この時に覚應山本教寺と改称とされ、中村一忠の頃、横田村詮による城下整備により三度移転され現在の場所へ移された。

 

娘が正室であった進少納言を徳長村に匿っていたともされるが、慶長年間に横田村詮の手勢によって捕らえられ磔にされている。

 

妻は1593年(文禄2年)、吉川広家から遺児の養育について打診があったがこれを断り、娘と共に毛利氏の殿医であった古市村の牧野家に身を寄せている。これには遺訓に「子孫は弓・槍・剣・戟などの武術は一切無用」とあったことが影響しているとされ、子の古曳種秀も帰農している。

後に牧野氏の計らいで上境村に閑居(実久村とも)、大袋村に庵寺を建立し仏門へ帰依、1595年(文禄4年)11月入寂とある。

娘は13歳で牧野家四男(榎大谷牧野氏)へ嫁付、古曳氏を継いだとされる。

 

郷土史では築城の名人とされることから、石井要害の水濠、戸上城の法勝寺川(尻焼川)に面した登り土塁などの知識を参考に、後の米子城を中海に面した海城と設計する際に応用し、加茂川を用いた内堀と外堀の水堀や中海の海上に面した登り石垣の基礎として取り入れ、海城としての機能を高めた設計を行ったことを推測したい。