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安井清一郎(やすい-せいいちろう)

【氏】不明【姓】不明【名】安井【通称】清一郎【諱】不明

【別名】安井清十郎(やすい-せいじゅうろう)、安井清次郎(やすい-せいじろう)

【所属】中村氏

【官位】不明

【出身】不明

【生年】不明

【没年】1603年(慶長8年)

米子城主、中村一忠の側近。文書によっては清十郎(せいじゅうろう)、清次郎(せいじろう)とも。

 

横田村詮の藩政手腕に嫉妬し、自身の出世の障害になるであろうとの浅慮から天野宗杷らと謀って横田村詮の暗殺計画を企てたとされる。

横田村詮を貶めるための讒言を主君の中村一忠へ吹き込み、暗殺計画の主犯格とされることから佞臣と評される。

 

山名氏、尼子氏、毛利氏(吉川氏)、徳川氏(正式な安堵は1610年(慶長15年)から)より代々寺領を安堵されていた大山寺の僧、豪円とは懇意にしていたとされ、横田村詮の検地による大山寺領の一部没収に対して恨みを持った豪円から唆されたことが騒動の引き金になったとも云われる。(横田村詮へ反感を持っていた野一色采女など他にも暗殺計画の黒幕とする説がある)

 

横田村詮の暗殺では、横田村詮の刀を持った侍童を道家長左衛門と共に斬り伏している。

(文書によっては横田村詮に反撃され右こぶしを斬られる侍童を斬り伏せたのは天野宗杷など記述が混同している)

 

米子城騒動後は禄高が700石から6,000石へと加増されていることから横田村詮の地位を受け継いだことが伺える。

矢継ぎ早の俸禄加増については中村一忠に取り入ったとし、このことが私利私欲に溢れた佞臣とする根拠とされている。

 

米子城騒動の事後処理では騒動の経緯について一切の取り調べは行なわれることなく、徳川家康から直々に反逆罪で天野宗杷と共に即刻切腹の沙汰を言い渡され、切腹したとされる。

 

別説には騒動後、幕府からの切腹の沙汰を恐れて出仕せず、屋敷に引き籠ったとある。

この説では中村一忠からの再三の出仕要請にも応じず屋敷に籠もっていたが、怒った中村一忠は弓の名手、依藤孫兵衛を屋敷に遣わしている。

依藤孫兵衛が出仕するよう促すも頑なに出仕を拒み、門を閉ざしたため依藤孫兵衛は向かいの屋敷の屋根に上り、そこから安井の屋敷の中に矢を射掛け、2射目で安井に命中させたとある。

 

その後も屋敷から出てこないことに業を煮やした依藤孫兵衛は屋敷に火をかけたとも云われ、炎から逃げてきたところを捕らえ城内にて切腹させたとも、燃え盛る屋敷の中で父子揃って切腹させたとも諸説が伝わる。