米子城
打吹城
黒坂城
江美城

最 新 情 報

2023/07/13

伯耆古城図録(倉吉市篇)南条屋敷 / 備前屋敷

打吹公園内に鎮座する鎮霊神社の鎮座する平坦地に所在したと伝えられます。

伯耆民談記では「南条屋敷」で統一されていますが、地元では「備前屋敷」と呼ばれます。

これは城館に居住した「南条備前守」の名或いは官途に由来するものですが、ここに登場する備前守は南条元信と考えられます。

南条家で「備前守」の官途を名乗ることは家臣団でも重要な立場を担うことであり、南条元信は嫡男ではなく弟の南条信正に「備前守」を譲っています。(南条信正は後の南条元続の後見人とされます)

城歴については打吹山に備前丸を普請するために建てられたことが見えますが、廃城を一国一城令発布後か、倉吉陣屋が完成するまで存続したとするかでやや幅があります。

(鳥取県倉吉市仲ノ町)

武将列伝更新

南条元信…南条宗皓の次男。伯耆民談記では官途を弟に譲った後も備前守として幾度か登場するためややこしいことになります。

南条元周南条元信の嫡男。父の名代として東伯耆の毛利南条戦で度々援軍として登場します。

南条信正…南条宗皓の三男。天正3年までは九郎左衛門尉。その後、兄より備前守を継承します。伯耆民談記では南条元信も続けて備前守と記されるため、天正4年以降の「南条備前守」がどちらの活動なのか、やっぱりややこしいことになります。

2023/06/30

伯耆古城図録(日野郡日南町篇)霞城 / 桜子城 / 霞上みの要害

「霞の要害」と呼ばれる城郭群のひとつで、主郭(桜子城)部分が「霞城」と伝える城砦と推定されます。

令和5年5月27日に開催された「にちなん山城歩き-霞上みの要害-」にて登城を行い、この「霞の要害」の正体が少しだけ見えてきました。

再検討するに現在は別の城郭として扱われている霞の要害(字要害)、霞上みの要害(字上み要害)、桜子村古城(字鹿ノ山)は、実は全てを合わせて一つの城郭である「霞城」ではないかという推測です。

なぜ別々の城に分けられてしまったかは伯耆志の記述が一因と思われますが、日野郡野史では霞上みの要害(字上み要害)と桜子村古城(字鹿ノ山)について同一の城と再認識されていたようですが霞の要害(字要害)については別城郭としています。

城歴については不明な城ですが、唯一、城主に金井弾正という人物が伝えられています。

※霞城(霞の要害)、桜子城、霞上みの要害については城域が同一の城郭で今回はまとめて掲載していますが、今後切り分けて再掲載する可能性があります。

(鳥取県日野郡日南町霞)

2023/05/26

伯耆古城図録(日野郡日南町篇)生山城

「日野本城」と推定される城郭のひとつで日野郡と広島、岡山方面を繋ぐ郡内の重要拠点です。

主郭には小型ながら枡形虎口跡が見え、二ノ丸他主要施設の切岸には石垣を普請するなど近世城郭の城様を一部に見せます。

一方、その他の附随施設は郭を並べただけで土塁も極端なほど僅かにしか存在しないなど、一つの城砦で新旧の技術の違いを見つけることができます。但し、簡素な部分は中世⇒近世への城郭改修途中で吉川氏の転封や関氏の黒坂城移転のため途中放棄された…という可能性も否定できないところではあります。

(鳥取県日野郡日南町生山)

2023/01/24

伯耆古城図録(倉吉市篇)大谷城

城歴は一切不明ですが、光源院文書では大谷村に関する記述が幾つか見られます。

内容を辿ると伯耆山名氏(山名氏之)が統治する頃に出現する保国寺との繋がりが考えられ、瀑岩等紳や惟高妙安など広徳軒に関係する僧へ寺領として寄進されていきます。

後に毛利氏へと与した南条宗勝の実効支配となりますが、光源院領の寺納分(年75石)を幾年に亘り毛利方へ上納していないことが問題となり、時の将軍であった足利義昭からも催促が来る始末となります。

結局、南条氏から寺納分が上納されることなく毛利氏と南条氏の対立が決定的となり、吉川氏は実質的に保国寺領を治めていた奥上忠兵衛尉に対して「南条は無視していい。所領の自由な統治を認める。好きにやれ」と、南条氏からの離間工作が行われていた描写などが読み取れます。

現存する遺構からは天正年間に吉川氏と南条氏の双方から改築を施された城砦であることが推定され、現地で攻防戦が行われたことを物語ります。

(鳥取県倉吉市大谷 / 鳥取県倉吉市上神)

2023/01/08

伯耆古城図録(倉吉市篇)打吹城備前丸

打吹城の本丸から西側へ約36メートル下がった場所に所在したと伝える二ノ丸です。

伯耆民談記には城名を築城主に因んだものではなく、1585年(天正13年)頃に八橋城の城主であった南条元信が倉吉へと移り、当城に居住したことに因んだものとしています。

小鴨丸と同様に凡その規模が記されていますが、こちらも戦時中の「ち号演習」の影響を受けていることが判っています。

(鳥取県倉吉市仲ノ町)

2022/12/14

伯耆古城図録(倉吉市篇)打吹城小鴨丸

打吹城の本丸から20メートルほど北へ下がった場所に所在したと伝える出丸です。

天正年間、南条元忠が南条家の家督を継いだ際、小鴨元清が後見役に任じられた頃の築城と考えられ、打吹山の山塊に所在する施設としては一番新しい城砦施設となります。

伯耆民談記にも凡その規模が記されていますが、戦時中には「ち号演習」、21世紀に入ってからでも2度の地震の影響を受けていることが判っている上、藪で隠れているため一番の見所とされる畝状竪堀群もなかなか確認が難しいです。

(鳥取県倉吉市仲ノ町)

2022/12/04

伯耆古城図録(倉吉市篇)赤磐城

詳細は不明。本当に情報が見つかりません…。

城域の大部分が八幡町に属しますが伯耆民談記には留海村が見え、村名に因んで富海城と言うこともあるとか。

打吹城の支城と考えられる城砦ですが、一考には四十二丸城の属城とも推測されます。

往時は赤岩山景雲寺という寺院が存在したこと、字名が赤岩であることから「赤岩城」の方が自然なのですが、何故か赤磐城と表記される謎の多い城跡です。

(鳥取県倉吉市八幡町、鳥取県倉吉市富海)

2022/10/10

伯耆古城図録(倉吉市篇)高城大平山城

高城城の出丸とされる城砦。

城歴は高城城に倣うものと考えられますが、立地や導線、残存遺構から推測して下福田城の詰城とも考えられることから現在の高城城とは運用目的が異なる城砦であったことが推測されます。

地元郷土史の「高城史」では高城城の想像図に出丸として描き込まれています。

(鳥取県倉吉市上福田)

2022/09/29

伯耆古城図録(倉吉市篇)高城城

国府親俊の居城。

大永の五月崩れでは一戦もせずに落城したことから「唯落の城」という蔑称の方が有名な城跡です。

高城山の山頂を主郭として、山塊はもちろん南北の谷すら越えて城域に取り込む程の巨大な山塞です。

規模に対して遺構の密度はそれほど高くはありませんが、城域の範囲だけを見れば伯耆手間要害に匹敵する広さを誇ります。

南側(市道福谷線の脇道)からは主郭に続く登山道が整備されているので比較的楽に踏破できる山城です。

(鳥取県倉吉市福富、同福積、同上福田、同沢谷、同服部 他)

2022/07/02

米子城と皆生温泉を紹介するパンフレットが出来上がりました!

これを読めば米子城と皆生温泉の歴史について”ほんの少しだけ”詳しくなれる(かもしれない)PRパンフレットを方々の協力を得て制作しました。

米子城と皆生温泉が歴史で繋がることにピンと来ない方が大半と思いますが、実は吉川広家が伯耆国の統治を認められていなければ「皆生(海池)」の地名は誕生していなかった可能性があったりなかったり…など、米子旅行のみやげ話の一助になれば良いなと思い原稿を作らせて頂きました。

興味を持たれた方はお近くの施設で手に取って頂けると幸いです。

配布施設と制作の裏話)(配布場所一覧

2022/06/08

伯耆古城図録(倉吉市篇)三江城※加筆修正+写真追加

高城城の支城と伝わる以外は詳細不明。

近くには捷号作戦による本土決戦を意識した「ち号演習」の痕跡と伝える洞穴跡が遺されています。

(鳥取県倉吉市三江)

武将列伝更新

国府伯耆守親俊高城城の城主とする人物。名が「国府」「国司」「国造」と書籍によって表現がまちまちで、それぞれ別人で考えないといけない気もしますが…どの書籍も諱以外の詳細は不詳。一説には南条虎熊(南条宗勝の幼名)と同一人物とも伝えています。

2022/06/05

伯耆古城図録(日野郡江府町篇)江美城 城ノ尾丸※加筆修正+写真追加

蜂塚氏の家臣、藤井蔵人の居城と伝えます。

城主の藤井蔵人については尼子氏、毛利氏、中村氏の全てに同名の武将が家臣として登場することから同一人物説と別人説の両説が考えられています。

1536年(天文5年)に蜂塚右衛門尉及び藤井蔵人の両人が江美城を居城としたと伝える伝承から、往時の江美城が「城ノ上」or「銀杏ノ段」or「当城」or「城ノ上+銀杏ノ段+当城」と、可能性の沼がどんどん広がっています。

(鳥取県日野郡江府町江尾)

2022/04/19

武将列伝更新

馬田源兵衛尉…伯耆佐川亀山城の城主とする人物。佐川神社へ25石を寄進したとするのみ伝わります。

馬田四郎五郎…伯耆佐川亀山城の城主とする人物。伯耆根雨城の城主にも同名の人物が伝わります。

馬田七郎右衛門尉…永禄7年(1564年)8月、江美城の戦いでは援軍として登場するも山田満重によって撃退されています。

馬田入道慶篤…元亀2年(1571年)、毛利方と尼子残党による浄満原の戦いに登場します。坊主なのに拝金主義だったのか…黄金装備を身に纏って偵察に出たところ(そりゃ見つかる)を敵に見つかり、装備一式は高橋資高に奪われ、首級は壇上重行に挙げられた挙句、両名ホクホクの笑顔で帰っていったという散々な結末を迎えます。

2022/04/15

伯耆古城図録(日野郡江府町篇)更新佐川亀山城

天文年間(1532年~1555年)に尼子方の武将であった馬田源兵衛尉馬田四郎五郎の居城と伝えます。

米子自動車道の建設によって城砦中央部に改変を受けていますが、独立丘陵の全域を城域とするならそれなりの規模を有した城砦であったと考えられます。

永禄7年(1564年)8月、江美城での合戦では馬田七郎右衛門尉なる人物が蜂塚義光への救援に向かっているようですが、毛利方の山田満重によって撃退されていることから馬田七郎右衛門尉も当城の城主のひとりであった可能性が考えられそうです。

(鳥取県日野郡江府町佐川)

2022/02/03

伯耆古城図録(境港市篇)更新外江城

萩藩閥閲録では天正年間、奈佐日本介が外江村に逗留し練兵(恐らく水軍)を行ったとしています。

往時はまだ弓浜半島が存在しておらず、中海に浮かぶ小島のひとつであったと思われますが、陰徳太平記では永禄年間より毛利方の雲伯の主要な軍港として出雲国の福良山とセットで度々登場します。

残念ながら城跡の候補と考える推定地の全てに遺構は見られず、字名から痕跡を辿ることも難しい城跡となっています。

(鳥取県境港市外江町、鳥取県境港市渡町、鳥取県境港市芝町)

2022/01/26

伯耆古城図録(北栄町篇)更新堤屋敷

伯耆山田氏累代の居城と伝える堤城の城域内に所在する堤屋敷

堤城を詰城とする山田重直らの居館部と伝えますが詳細はイマイチはっきりとしません。

自衛隊編纂の「山陰古戦史」では堤城よりも戦略的に重要な施設になり得るとしていますが、これも編纂時の地形から検討されているため、往時の堤屋敷の戦略的価値が堤城を上回っていたとするかは判断の難しいところです。

小字名に「堤屋敷」とあり、北尾集落のほぼ全域が「堤屋敷遺跡」と呼ばれます。

(鳥取県東伯郡北栄町北尾)

2022/01/12

武将列伝更新

進因幡…月の上十五は「大山寺経悟院」、下十五は「進因幡」を名乗っていることから兼業坊主?進左吉兵衛と共に吉川元春に対抗します。

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