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◆常住山感應寺

【訪問日:2013/09/06】

【 概 略 】

伯耆国米子城の城主、中村一忠の執政家老、横田村詮によって米子城主の菩提寺として建立と伝わる。

大龍山總泉寺と同じく伯耆国米子城の砦としての機能を持たせた設計とされるが、大龍山總泉寺とは違い戦に使われることは無かったとされる。

 

横田村詮は駿河国の頃、静岡感應寺十一世の日長上人とは親交を深めていたとされ、

感應寺を建立するにあたっては城主の菩提寺とすることで寺格を高めた上、日長上人を懇請招聘し鄭重に迎えたと云われる。

横田村詮の熱意に打たれた日長上人は開祖に日蓮聖人の直弟子六人のひとり、佐渡阿闍梨日向上人を、

二祖に静岡感應寺再興の師である日朝上人を、自らは三世として米子城主の菩提寺としての寺格を高め、寺観を整えたとされる。

 

1609年(慶長14年)5月11日、米子城主の中村一忠が二十歳で急逝すると二名の小姓も殉死。

中村一忠と殉死した垂井延正服部邦友は共に感應寺へと手厚く葬られた。

現在は中村一忠の墓碑が建立されている場所には元々、御影堂が建てられており、三名の木像も祀られていたとされるが

御影堂が朽ちたこともあり、中村一忠の三百五十回忌に合わせて大五輪の墓碑が建てられると木像は本堂に移され祀られる事となった。

静岡、米子、和歌山の三寺は常住山感應寺と称し、日本法華三感応寺と呼ばれている。

 

尚、横田村詮が自身の菩提寺とするため建立したとする説があるが、この説は誤りとされる。

当時の日長上人を地位を考えると、家老職の菩提寺開山に静岡より地理的に劣る米子へ招聘する事は礼を失する行為であり、

熱烈な法華宗徒とされる横田村詮がこのような非礼を行うとは考えに難いことが根拠となっている。

また、この説では1603年(慶長8年)の米子城騒動で横田村詮の謀殺後、亡骸は菩提寺である感應寺に埋葬されたと続き、

1609年(慶長14年)に中村一忠が急逝すると城主の菩提寺とするため横田村詮の亡骸を普平山妙興寺へ改葬したとあるが、

この説を裏付ける資料も発見されていない。

【 遠 景 】

正面

中村一忠の墓所

【 概 要 】

名 称常住山 感應寺(じょうじゅうざん かんのうじ)

所在地:鳥取県米子市祇園町

建立年:1600年(慶長5年)頃

建立主中村一忠横田村詮

文 献:米子の伝承と歴史(昭和48年3月:生田彌範 著)、正伝普平山菩提樹院妙興寺(平成17年4月初版※平成24年12月改訂)

遺 構:郭跡、石垣

現 状:常住山 感應寺

種 類:寺院

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

不明

不明

当初は竹中某によって建立された庵寺があったという伝説が残る。

慶長5年

1600年

伯耆国米子城の城主、中村一忠の菩提寺とするため、

執政家老の横田村詮の尽力によって建立されたと云われる。

慶長14年

1609年

伯耆国米子城の城主、中村一忠が急逝。

垂井延正服部邦友も殉死し、手厚く葬られた。

江戸時代

不明

池田氏治世の頃、伯耆国米子城と感應寺との間の薬研堀に竹中橋があり、

竹中半兵衛なるものが渡銭を取ったとされる。

【 写 真 】

山門

初代米子城主、中村一忠の墓所

中村一忠の墓所には石垣が組まれる

墓所へ続く石段

【同好会活動日誌】

初代米子城の城主、中村一忠のお墓があるお寺だね。

大龍山總泉寺と共に米子城の砦としての機能を持ったお寺でもあったらしいわよ。

大龍山總泉寺と違って感應寺は戦に使われなかったそうだけど。

建立にあたっては一部に変な説が通説として紹介されてるみたいだけど…。

横田内膳が自身の菩提寺にするために建立したとか…

米子城騒動で亡くなった横田内膳が最初に埋葬され、中村一忠が亡くなると城主の菩提寺にするからと、

横田内膳の亡骸を妙興寺に改葬したとか…。

 

自ら手打ちにした家臣の菩提寺を城主が自らの菩提寺にするなんて普通に考えても有り得ないだろうし、

1604年(慶長9年)に亡くなられているはずの日逞上人が1609年(慶長14年)、日長上人横田内膳の遺骸を

妙興寺へ改葬するように依頼している上、なんと囲碁の対局までしていたり…。

 

この”横田内膳菩提寺説”を調べると、ありえない事のオンパレードになるので、

どこかでこの説を目にしても信じない方がお勧めかもね。

不思議な力であちらの世界と繋がっていたのかな…霊界通信とか。

すごくオカルトな説だよね。。。