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◆普平山妙興寺

【訪問日:2013/11/14ほか、覚え切れないほど訪問…】

【 概 略 】

広普山妙国寺に由来し普平山(冨平山とも)菩提樹院妙興寺と号する。

伯耆国米子城の城主、中村一忠の執政家老、横田村詮の菩提寺。

 

1564年(永禄7年)3月28日、堺会合衆のひとりで火薬商を営んだ豪商、油屋常言の弟である瑞応院日逞上人の開山と云われる。

 

日逞上人は法華経布教のため南蛮交易で使用されていた油屋の堺船に乗り、西へと下り米子に入るが当時の米子は一面が松林、

集落も点在する程度の未開の地であったと云われる。

米子に入った当初は未開の地であった当地に庵を建て(庵を建てた日が永禄7年3月28日とされる)布教活動の一方、

堺方面から建材や人夫などの資材を海路より調達し、開墾・整地を進め29年という歳月をかけて寺院の景観を整えたとされる。

 

また、布教活動を行うと同時に周辺の動向を探る諜報活動も行っていたようである。

未開の地へこれだけ多くの人員・物資を調達できたのは収集した情報を交換するなど日逞上人が堺方面との交流に努めた成果といえる。


開山の日逞上人は米子城騒動で謀殺された横田村詮の葬を厳修した後、1604年(慶長9年)4月28日、89歳で遷化された。

 

現在も妙興寺の境内には横田村詮の墓碑が祀られているが、本堂東側に建立されている墓碑は近年複製されたレプリカ。

妙興寺第七世本是院日法上人によって1690年頃(元禄年間)に再建された墓碑は風化が激しく自立すら難しいようで

本堂正面の向かって左手側、犬走りの上にアクリルケース内に寝かされた状態で保管されている。

 

横田村詮が弔われた当初の墓碑を記す資料はないが、小さな木造の祠様であったのではないかとも考えられている。

【 遠 景 】

山門

本堂

【 概 要 】

名 称普平山 妙興寺(ふひょうざん みょうこうじ)

所在地:鳥取県米子市寺町

建立年:1564年(永禄7年)3月28日

建立主日逞上人

文 献:正伝普平山菩提樹院妙興寺(平成17年4月初版※平成24年12月改訂※平成27年4月大改訂)

遺 構横田村詮墓碑

現 状:普平山 妙興寺

種 類:寺院

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

永禄7年

1564年

未開の地であった当地に堺会合衆のひとりで火薬商を営んだ豪商、

油屋常言の弟である瑞応院日逞上人が庵を建て開山したと云われる。

文禄年間

1593年頃

布教活動と同時に29年の歳月をかけて寺院の景観を整えたとされる。

慶長8年

1603年

伯耆国米子城の城主中村一忠が執政家老の横田村詮を誅殺。(米子城騒動)

 

騒動の最中、城への出入りは極端に制限されていたと考えられるが

中村家の菩提寺であった感應寺住職、日長上人の扱いは別格であり、

騒動によって混乱する城内への立ち入りも可能であったと云われる。

 

騒動を知った日長上人は専用の駕籠で城内へと入り、手討となった横田村詮の亡骸を

受け取ると妙興寺へ急ぎ、日逞上人に厳粛な葬を行うよう依頼したとされる。

日逞上人によって横田村詮の亡骸は鄭重に弔われた後、妙興寺の境内へと埋葬された。

慶長9年

1604年

日逞上人が遷化。89歳。

【 写 真 】

妙興寺境内の横田村詮の墓所

横田村詮の墓碑(中央)

元禄年間に再建された墓碑

自立が難しいほどに劣化(崩壊)した墓碑

【同好会活動日誌】

米子市の歴史を語る上で外せないのがここ、横田内膳の菩提寺「妙興寺」。

内膳さんは現在の米子市の礎を築いた武将だよ。

今回、妙興寺さんのご住職、ご院首のお二方にお話を伺う機会をいただけて、

何気なしに妙興寺さんへ伺ったのが平成24年11月14日。

実は11月14日って横田内膳の命日だったりするのよね。あまりの偶然に不思議な縁を感じてしまったわよ。

内膳さんのお導きだねー。

妙興寺さんでは参考になるお話もたくさん聞かせてもらって内膳さんのことはもちろん、

米子城にまつわる話も多く教えてもらって、どの情報が正しくて、脚色があったり疑わしいのか…という話も参考になったね。

これまでは集めた情報のほとんどをただ羅列していく形だったけど、図書館の本には書かれていないこと、

ネット上の不正確や脚色された情報、他県に残る資料から見た解釈の大切さなども改めて認識できた良い機会だったわね。

ちなみに、歴史や武将の紹介では横田村詮と諱で統一してるけど、

今回は米子市の礎を築いた武将へ敬意と親しみを込めて横田内膳と記してます。

間違いじゃないからね~。