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HOME > 伯耆古城図録 > 伯耆古城図録 ~倉吉市篇~ > 倉吉市 > 岩倉城

◆ 岩倉城 

【 概 略 】

奈良~平安時代から在庁官人として伯耆国庁に仕えたと云われる小鴨氏累々の居城と伝わる。

 

因伯古城跡図志(文政元年)には以下の記述が見える。

「岩倉村古城跡、竹木草有。前通リ河村郡ヘ越、間道有。山ノ高四十間位」

 

「城山」と呼ばれる岩倉山の山頂に本丸が所在。

西の岩倉川を天然の掘とし、主郭の東西尾根には堀切を配する事で防御を高めている。

北の谷筋を挟んだ北尾根筋の郭群、北西尾根筋の郭群、主郭郭群の3区画が城域と考えられる。

 

1182年(寿永元年)8月20日、小鴨基保紀成盛による戦では出雲、石見からの増援があったことが記されている。(吉記)

小鴨基保紀成盛は以前から対立しており、小規模な戦が頻発していたとも伝えられている。

 

築城時期に関しては不確かであるが奈良~平安時代には居館が所在したことが伺え、紀氏との戦に備えた増・改修が考えられる。

1182年(寿永元年)とする記述が多いが、状況から1182年~1185年(寿永元年~元暦2年)頃と推測されている。

 

伯耆民談記、伯耆民諺記では以下の記述が見える。

「小鴨庄岩倉村の山にあり。当城は小鴨の氏族累々の家城なり」(伯耆民談記巻之十三 久米郡古城之事 岩倉山城之事)

 

居を構えた小鴨氏として小鴨左衛門尉元康小鴨元之(小鴨入道)、小鴨新三郎元近小鴨小次郎良俊小鴨掃部助良章の名前が見える。

 

1333年(元弘3年/正慶2年)、後醍醐天皇を迎えた名和長年の軍勢の攻撃を受け、小鴨元之は降伏し落城したと云われる。(小鴨城と記述)

 

1391年(明徳2年)には小鴨入道小鴨新三郎元近らが山名播磨守満幸に呼応し摂州内野で戦死していることから名和氏が衰えると早い段階で山名氏に与した事が伺える。

 

1467年~1477年(応仁元年~文明9年)、応仁の乱では山名教之に従った小鴨安芸守之基が船岡山の戦いで討死とある。

 

1524年(大永4年)5月、大永の五月崩れでは尼子経久の侵攻により落城。

尼子氏に占領されると小鴨掃部助良章は国外(因幡)へ逃れたとされる。(因幡を頼らず尼子氏に従った小鴨氏がいた事も確認できるが後に毛利氏へと与している)

 

1561年(永禄4年)頃から毛利氏が勢力を伸ばすとこれに与したと考えらる。

 

1566年(永禄9年)に尼子氏が毛利氏へ降伏すると小鴨氏は当城への帰城を果たし、南条氏と共に吉川元春に仕えたとある。

 

1570年(元亀元年)2月、小鴨氏の留守中に尼子勝久山中幸盛の配下による攻撃とも)の攻撃を受け落城とあるが、落城の報を受けた因幡の湯原元網武田高信南条元続らの支援を受け短期間のうちに奪還とある。(森脇覚書)

萩藩閥録では奪還の際、城代として山田越中守の入城の記述が見える。

伯耆民談記では黒松将監国時永原玄蕃惟定の小鴨氏重臣や小鴨十二士(尾崎三郎次郎船岡弥彌三郎北村甚九郎岡又次郎細田彦四郎日野甚五郎杉森善右衛門石川又三郎戸倉彦五郎高柴彌五郎成相加助安部助太郎)の奮戦が記されている。

この頃の城主、小鴨掃部助には嫡男不在とあり南条氏から養子として南条左衛門尉元清を迎えているが時期は不明。

 

1577年(天正7年)頃、杉原氏南条氏山名氏小鴨氏は毛利方として美作方面へ侵攻していたが同年秋頃、南条元続が毛利方から離反すると小鴨元清も同調し共に織田氏へ帰順したとあり、この離反は毛利方の杉原盛重から特に恨みを買ったようである。

以後は杉原氏と南条氏が仇敵の間柄として多くの書物に記述が散見される。

 

1578年(天正8年)頃から毛利氏は吉川元長を総大将に南条・小鴨攻めの準備を始めており、伯耆国由良城など周辺諸城も攻略している。

 

1579年(天正9年)2月22日の岩倉合戦では伯耆国今倉城正寿院利庵小鴨四郎次郎経春らが岩倉城下まで迫るが、弓・鉄砲を用いて応戦、毛利方の作戦の手違いも重なり毛利軍の撃退に成功している。

 

1580年(天正10年)5月、毛利方の当城への総攻撃が開始され、小鴨方の黒松将監国時永原玄蕃惟定を始め小鴨十二士らの頑強な抵抗により善戦したとされるが同年9月~10月頃に落城とある。

落城の同日、南条兵庫守元周と300騎の援軍は倉吉付近で落城の報を聞き引き返したとされる。

 

落城の様子として倉吉市誌に以下の記述が見える。

「吉川元長、討手の輩に下知をなし、火矢を頻(しき)りに射させしが、西の手より打込みしに火矢城の角矢倉に燃えつきけるに、一時に燃え上がりければ城中騒動言やむ方なく遂に落城に及びける」

(吉川軍が西側から火矢を射かけ、岩倉城西側の矢倉が炎上、飛び火し一気に城へ燃え広がると城中は騒然となり遂には落城した)

 

城主の小鴨元清南条元続を頼り伯耆国羽衣石城へ入るが羽衣石城が落城すると京都方面へ逃れたとされる。

 

京芸和睦により1584年(天正12年)頃に再び当城を回復したと考えられるが詳細は不明。

 

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで南条氏は西軍に属し敗戦、南条家の改易と同時期の廃城とされる。

 

中村一忠が伯耆国入りし、執政家老の横田内膳が米子城町の整備を行った際に岩倉城下の有力商人らを米子に移住させた町が岩倉町と云われる。

また、伯耆国米子城の天守は当城を移築したとする伝説があり、廃城したときの資材を米子へと運び利用したことが考えられる。

【 遠 景 】

北東からの遠望

南西からの遠望

岩倉川と城山橋

谷筋を挟んだ北郭跡の遠望

【 見どころ 】

地名の元となった岩盤

確かではありませんが、良質な岩が採取できたことから岩倉の地名が付いたと推定されます。

歴史は古く、奈良時代の頃まで遡ります。

小鴨氏と紀氏、山名氏と尼子氏、毛利氏と南条氏など、各時代で諸勢力が覇権を争った激戦地の一つとされています。

【 概 要 】

名 称岩倉城(いわくらじょう)

別 名:岩倉山城(いわくらやまじょう)、小鴨城(おがもじょう)

所在地:鳥取県倉吉市岩倉

築城年:1182年~1185年(寿永元年~元暦2年)頃

廃城年:1600年(慶長5年)頃

築城主小鴨左衛門尉元康小鴨左衛門尉元兼とも)

城 主:(伯耆山名氏)小鴨左衛門尉元康小鴨元之小鴨新三郎元近小鴨小次郎良俊小鴨掃部助良章(南条氏)小鴨元清(毛利氏)山田越中守

形 態:山城

遺 構:郭跡、堀切、空堀、土塁、虎口、土橋、横堀、竪堀?

現 状:山林

種 類:史跡指定なし

【参考文献】

・伯耆民談記・伯耆民諺記・因伯古城跡図志・吉記

・萩藩閥録(森脇覚書)

・倉吉市史(昭和48年11月発行:倉吉市史編纂委員会)

・新修 倉吉市史 第二巻 中・近世編(平成7年3月発行:倉吉市史編集委員会)

【城娘】

【 縄張図 】

岩倉城略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

寿永元年

元暦2年

1182年

1185年

元弘3年

/

正慶2年

1333年

明徳2年

1391年

応仁元年

文明9年

1467年

1477年

大永4年

1524年

永禄4年

1561年

永禄9年

1566年

元亀元年 1570年
天正7年 1577年

天正8年

1578年

天正9年 1579年

天正10年

1580年

天正12年 1584年
慶長5年 1600年 関ヶ原の戦いで南条氏は西軍に属し敗戦、南条家の改易と同時期の廃城とされる。

【 写 真 】(訪問日:2016/05/14)

登山道のある登城口

(伝)大手門付近

登城口から続く北西郭跡群

北西郭跡群

道脇には多段の郭跡や土塁

北西郭跡群

北西郭跡群

北西郭跡群の腰郭

北西郭跡群に五輪塔の残骸

道中の落石

主郭西側尾根の堀切

主郭西側尾根の堀切

主郭の腰郭へ続く道

主郭北側の腰郭

主郭北側の腰郭

主郭北側の腰郭

主郭北側の切り岸

二ノ丸の虎口

二ノ丸の虎口の石垣

二ノ丸の腰郭

二ノ丸

二ノ丸

二ノ丸

二ノ丸

二ノ丸中央の土塁

二ノ丸からの眺め(北西向き)

二ノ丸から本丸

二ノ丸から本丸へは細い郭で繋がる

本丸から二ノ丸

二ノ丸から本丸

二ノ丸と本丸を繋ぐ郭には段差がある

本丸

本丸南側の土塁

本丸西側の腰郭

本丸西側の腰郭

本丸東側の腰郭

本丸南西側の腰郭

本丸東側の腰郭(井戸郭)

井戸郭の井戸跡

本丸南東側の腰郭

本丸南東側の腰郭から続く郭跡へ

腰郭から続く郭跡は岩が多い

本丸南東側の腰郭から続く郭の竪堀

本丸から東側には堀状の遺構が多い

空堀状の遺構(採石跡?)

空堀状の遺構?

石積み

石の残骸が多い(破城の名残?)

石の残骸

石の残骸

岩を切り出した形跡

南側は岸壁

堀状の遺構

石垣跡

石積み(崩れた石が集まったもの?)

矢穴の見られる石

礎石の残骸