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HOME > 伯耆古城図録 > 伯耆古城図録 ~倉吉市篇~ > 倉吉市 > 和田城

◆ 和田城

【 概 略 】

和田集落の北東に聳える和田山南側丘陵の一支脈、北東から南西の方向に伸びる尾根先端部に所在する。

主郭は四方に空堀と土塁を巡らせた方形郭(約45m×約40m)とされ標高は90m。

昔の地図には更に東の尾根頂部(標高96.3m)に平場と思われる図示も見え、こちらに主郭或いは伝令施設を置いた可能性も考えられるが現在は殆ど高低差が見られない程度に平削されている。

 

1994年(平成6年)4月~1995年(平成7年)6月にかけ、向山ゴルフクラブ開発事業に係る夏谷遺跡(字夏谷、字袋谷、字中峰、字道和寺)の発掘調査が行われている。

北の谷を越えた尾根までが開発により改変されているが調査報告では古墳時代までの遺構とし中世城郭に関する報告は見えなかった。

 

残存する遺構は主郭の四方に空堀を配していることから居館に似た構造で空堀の外側には土塁を配したと推測される。

但し明確に土塁が残るのは東側と西側虎口付近のみで北側及び南側にも土塁を配したかは不明。

北側には東西の土塁が伸びるような痕跡があり崩落に拠って失われた可能性もあるが倉吉市史では北側の斜面は切岸とし、東の空堀と土塁は尾根を断ち切り進軍を遅らせる程度の役割としている。

 

主郭西側の平入虎口から先の斜面には射撃戦に特化した縄張が形成されている。

中腹には大竪掘を通し(不明瞭だが小さな竪掘を想像させる堀跡も2箇所見られた)、大竪掘を挟む形で左右に小型連郭群を展開、竪掘以北の郭群には北側の谷筋にも対応可能な郭を配している。(この郭の存在から北の谷を越えた尾根にも何らかの施設が存在したと考える)

主郭正面には人工の竪掘(群)を設け南北の谷筋を天然の掘として利用した場合は畝状竪掘群で守備を固めた城砦が推測できそうである。

 

当城が機能した時代は北側が湿地帯、南側が国府川、北条川と天然の要害を成していたと推測され、西側に竪掘及び連郭群を備え強固な防衛線を構築しているのに対し東側は空堀と土塁のみと防御が非常に薄い。

山名氏が伯耆国田内城を築城した頃から南条氏が東伯耆を領した頃は支城の一つと考えられるが、馬場方面から侵攻を受けた場合は田内城や伯耆国和田東城との連携が難しく、援軍との挟撃など反撃を想定した意図が設計からは見受けられない。

 

地形の変化により運用方法も変わるが現状では他城との連携に重きを置いた城砦ではなく、単独の城砦か田内城の防衛を整える時間稼ぎのため殿軍の役目を持った城砦とも考えられる。

単独の城砦と推測した場合は田内城の築城以前から山名氏の居城があり、往時は単独の城砦とする運用で完結していたため後に築城される他城との連携を考えていなかった可能性もある。

 

文書には山名政豊感状に和田山合戦についての記述が見える。

「於去年伯州度々粉骨、殊八月十二日於円山城責口、被官人数輩被疵、同十四日和田山合戦之時、討捕敵頸一(遠藤九郎三郎)、頸一(綱嶋五郎左衛門尉)、頸一(名字不詳)、同九月八日和久嶋河原合戦之時、被官両人鑓突云々、尤以忠節異于也、弥可被戦功之状如件、文明十三年六月廿三日(花押)垣屋修理進殿」(垣屋文書)

 

感状では1480年(文明12年)8月14日の和田山での合戦が記されており、遠藤九郎三郎綱嶋五郎左衛門尉と他一名の計3名が討ち取られたことが記される。

1479年(文明11年)~1481年(文明13年)頃に山名政豊山名政之を援けるため伯耆へ下向しており、垣屋修理進山名政之に与した武将であったことから1480年(文明12年)の当城には山名元氏に与した城将が詰めていたことが感状から読み取れる。

同年9月8日には戦線が和久嶋河原へ移っていることから8月14日~9月8日の間に当城の落城が推定される。

 

落城後の詳細は不明だが金地福山定光寺の境内に南条氏三代の宝篋印塔が祀られること、西側の連郭群が毛利氏吉川氏)に対して増強された施設と仮定するなら南条氏が改易されるまで維持された可能性が推定される。

 

金地福山定光寺は和田山の南側山麓に鎮座する。

一説には建久年間(1190年~1199年)に創建された律宗寺院を始まりとされるが、後に山名氏之が明徳年間(1390年~1393年)に再興と伝わる。

 

1392年(明徳3年)春、山名氏之南条貞宗の二男、機堂長応(機堂禅師)を開山一世に招き禅宗寺院として再興とあるが金地福山定光寺の縁起では南条貞宗を開基、機堂長応を開山一世とし律宗から曹洞宗へ改宗とある。(金地福山定光寺略縁起)

【 遠 景 】

南東(向山)からの遠望

南東(向山)からの遠望

北西尾根先端から和田集落

北西尾根先端から四王寺方面

【 見どころ 】

金地福山定光寺

山名氏之、或いは南条貞宗を開基とする曹洞宗のお寺です。

山号は「金地福山(こんちふくざん)」と珍しい四字の山号です。

 

山名氏や尼子氏に関する書状(定光寺文書)や尼子経久の肖像画などを所蔵され、境内に南条氏三代の宝篋印塔が祀られるなど山名氏、尼子氏、南条氏との深い繋がりを感じさせます。

伝・南条氏三代の宝篋印塔

境内の墓地には南条氏三代の墓とされる三基の宝篋印塔があります。

隣の碑には南条元続、南条元秋、南条元忠と掘り込まれてあり、言い伝えではお墓とされますが確証はなく、塔身に刻まれた文字から逆修塔でもなさそうです。

一般的な宝篋印塔と比べると倉吉の塔は塔身部分が長い特徴があるようです。

東側の土塁と空堀

主郭東側の唯一の防御施設です。

主郭を囲む四方の空堀の一部なのか…単に尾根を断ち切るためだけの堀切なのか…。

見方次第でお城の性質が全く違ってくる遺構です。

【 概 要 】

名 称和田城(わだじょう)

別 名:和田山城(わだやまじょう)

所在地:鳥取県倉吉市和田字道和寺

築城年:不明

廃城年:1480年(文明12年)8月14日~9月8日落城

築城主:不明

城 主:(伯耆山名氏)山名元之に与した城将

形 態:丘城

遺 構:郭跡、竪掘、土塁、空堀(或いは堀切)、平入虎口(南西)、土橋

現 状:荒地、雑木林

種 類:史跡指定なし

【参考文献】

・山名政豊感状(垣屋文書)・金地福山定光寺略縁起

・夏谷遺跡発掘調査報告書(1996年3月:倉吉市教育委員会)

・新修 倉吉市史 第二巻 中・近世編(平成7年3月:倉吉市史編集委員会)

・和田史誌(平成19年12月:和田史誌編集委員会〔和田の明日を考える会〕)

・第4回 古戦場・山城・荘園をあるく-山名氏の伯耆支配と上神地域-(令和元年11月10日配布資料)

【城娘】

 

【 縄張図 】(鳥取県教育委員会提供)

和田城略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事
文明12年 1480年

文明13年

1481年

6月23日、山名政豊より和田山合戦の功績に対し垣屋修理進へ感状が発給されている。(垣屋文書)

【 写 真 】(訪問日:2019/11/10、2019/11/17)

麓に金地福山定光寺が鎮座

定光寺山門

観音堂への参道

参道の途中に南条氏三代の宝篋印塔

碑には元続・元秋・元忠とある

観音堂

観音堂の庇下には池田家の家紋

観音堂西側に作業道

作業道は本殿など工事の際に造作

作業道分かれに北の谷筋への入口

谷も堀としての利用が推測される

谷の入口付近に散石が目立つ

谷(北)の様子

谷(北)の終点

谷を登ると尾根頂部

北側尾根は破壊済

尾根頂部も改変のため標高が低い

尾根頂部から巌城方面

尾根頂部北東には南に落ちる谷

谷の先は馬場方面に落ちる

東側は防衛施設が見えない

尾根頂部から主郭

主郭東側の北東方面に対する土塁

主郭東側の土塁

主郭北側(角)の土塁

北側土塁端は崩落のためか緩傾斜

主郭東側の空堀

主郭東側の空堀

主郭東側の空堀と土塁

主郭東側の空堀と土塁

主郭北側の腰郭(空堀で土塁は崩落?)

主郭北側の腰郭と切岸(崩落跡?)

主郭西側の土塁上から平入虎口

主郭西側の土塁と平入虎口(西から)

主郭西側の土塁と平入虎口(主郭から)

主郭北西の土塁と腰郭

主郭北西の土塁と腰郭

主郭北西の土塁と腰郭

主郭北西と腰郭

空堀(北)と(西)の交差部

主郭

主郭

主郭

主郭北西の腰郭から北の谷への切岸

主郭西側虎口の土塁(南側)

竪掘南側の郭跡群(上から1段目)

竪掘南側の郭跡群(1段目)

竪掘南側の郭跡群(2段目)

竪掘南側の郭跡群(2段目)

竪掘南側の郭跡群(3段目)

竪掘南側の郭跡群(3段目)

竪掘南側の郭跡群(4段目の南側)

竪掘南側の郭跡群(4段目の南側)

竪掘南側の郭跡群(4段目の北側)

竪掘南側の郭跡群(4段目の北側)

4段目の間には小さな空堀(竪掘)

4段目(南側)から主郭方面(左は連郭)

山中の大竪堀

大竪堀

大竪堀の内部

大竪堀から主郭方向

大竪堀の頂部周辺に土橋?

大竪堀の頂部に土塁?

大竪堀の頂部から見下ろす

竪掘北側の郭跡群(上から1段目竪掘側)

竪掘北側の郭跡群(1段目谷側)

竪掘北側の郭跡群(2段目谷側)

竪掘北側の郭跡群(2段目竪掘側)

竪掘北側の郭跡群(2段目谷側)

竪掘北側の郭跡群(2段目谷側切岸)

竪掘北側の郭跡群(2段目谷側)

竪掘北側の郭跡群(3段目)

竪掘北側の郭跡群(3段目)

竪掘北側の郭跡群(3段目)

竪掘北側の郭跡群(4段目北側)

竪掘北側の郭跡群(4段目の中間)

竪掘北側の郭跡群(4段目南側)

竪掘北側の郭跡群(4段目南側)

北西側作業道北側の谷筋