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◆ 末吉城

【 概 略 】

城砦の始まりについては1569年~1571年(永禄12年~元亀2年)に起こった尼子再興戦で山中幸盛が末吉、国信(国延)の両村周囲を囲むように空堀を配し、土塁を高く積み、土塁上に防柵、櫓を設けることで村ごと城砦化したことが伝えられている。

城砦の正確な遺構や規模は不明であるが、現在の末吉・国信集落から日本海側にかけての大部分が城域と推定される。

 

南側の集落には石垣や礎石の残骸が残り、土塁や空堀の名残と感じさせる高低差を持つ場所が多数ある。

集落の中ほどには「若之宮」と呼ばれる社があり、土塁で囲まれ背後は堀、また門の跡と思われる痕跡もあることから、この場所に主郭、もしくは居館があった可能性を考えたい。

若之宮の南側には水を溜める堤があるが元々は南側(大山方面)からの敵襲に備えるための土塁(土壁)とも云われている。

立て籠もる山中幸盛に対して毛利方が3重の櫓を造り、矢や石を放って攻撃を行った記述に合致する場所の一つと推定できる。

 

集落から国道9号を挟んだ北側は主に畑地となっているが空堀や土塁と考えられる地形が一部に残る。

道路は空堀、土塁と思われる土盛には礎石の残骸など城砦に関係するかもしれない痕跡を見かけることができる。

 

異説には1274年(文永11年)の文永の役、1281年(弘安4年)の弘安の役と二度にわたる蒙古襲来に対する海岸線の防衛強化のため、伯耆国小波城の支城として築城された一城が始まりではないかとする説もある。

土塁裏側は武者隠しのような郭の構造が見られる部分もあり北側は海からの襲撃に備える防御施設が配置されたと考えられる。

 

また、時期は不明だが1566年(永禄9年)の尼子氏滅亡後、毛利方に降り以降の忠勤を認められた神西元通が当城の城主に任じられていることから山中幸盛が城砦化を行う以前から城館が存在していたことも推測できる。

 

1569年~1571年(永禄12年~元亀2年)、大山寺経悟院からの援助を受け毛利方から離反すると伯耆国稲吉城、伯耆国淀江城も呼応し尼子方へと与している。

この3つの城が西伯耆での再興軍拠点(伯耆三城)とされている。

 

1571年(元亀2年)6月、当城の城主であった神西元通は毛利方の目付役、中原善左衛門を暗殺し尼子方へ寝返っている。

 

異説では同年同月、既に尼子方に寝返っていた神西元通への降伏勧告に美甘与一右衛門中原善左衛門が遣わされたが、勧告の受諾を装った交渉成立の祝いに催された宴席で両名は殺害されている。

 

同年8月、毛利元就の弔い合戦と称して吉川元春が大山寺経悟院へ向け侵軍を開始。

毛利方の軍勢は大山寺経悟院を攻めると見せかけ、途中で転進すると山中幸盛が300騎で立て籠もる当城を攻撃している。

 

同年8月18日、山中幸盛は戦に敗れ捕縛されたことが記述に見える。(萩藩閥閲録など)

 

国信神社の社伝には尼子再興戦で毛利方の武将として福頼左衛門尉が尼子残党と戦っているが、出来事を天正年間としているため信憑性に欠ける伝承となっている。(福頼左衛門尉もこの地の城主とするなら福頼左右衛門尉と考えられる)

 

汗入史綱では城主を山中幸盛としており、福頼左衛門尉の攻撃を幾度も退けている記述が見える。

当城に籠もった山中幸盛はよく戦い、攻めあぐねた福頼氏美甘氏に使者を出したとしている。

 

末吉城及国信八幡火災の事(汗入史綱 口碑・伝説)

「天正年中の頃、末吉の城主、山中鹿之助とて(略)末吉の城と申すは平地なれども、北は漫々たる海を背負ひ岸高く、東西は深き谷を界へ、南一方村落に続き、其間に乾堀を構へたり。西の谷より向ひに宮原とて広き原あり。城廓よりは貮町余もあるらん。此原より福頼左衛門尉大勢を率し発向し、谷を隔てて戦ひける(略)」

 

現在は国道9号沿いに美甘与一右衛門を悼む美甘塚と山中幸盛の供養塔と云われる五輪塔が並んでいる。

大きな美甘塚は近年建て替えられた塚で本来の美甘塚は右側にある小さな五輪塔の方とされる。

 

山中幸盛の供養塔は個人の庭に崩れ散乱していた状態で長く放置されていたものを組み直してこの場所に祀ったとされる。

江戸時代の文献「伯耆めぐり」ではこの五輪塔が山中幸盛の供養塔としている。

【 遠 景 】

末吉城址(駐輪場)

美甘塚などが並ぶ

美甘塚の案内板

山中幸盛供養塔の案内板

【 見どころ 】

伝・山中鹿介供養塔

国道9号沿い、末吉集落の「末吉城址」駐輪場建物の横に鎮座します。

近年まで個人宅の庭に崩れた状態で放置されていた五輪塔ですが組み直され山中幸盛の供養塔とされています。

江戸時代に書かれた文献「伯耆めぐり」に記述が見えることが根拠とのことです。

美甘塚

元亀年間の尼子再興戦における当城の降伏勧告に赴き、その際に尼子方の謀略により殺害された末吉集落の英傑、美甘与一右衛門を祀る美甘塚です。

謀略を企てた尼子方の武将、山中幸盛の供養塔とされる五輪塔と並べて祀られているのは不思議な光景です。

征清殉難之碑

日清戦争に関係する碑です。

美甘塚と山中幸盛の供養等を隔てる位置に鎮座します。

【 概 要 】

名 称末吉城(すえよしじょう)

別 名:末石城(すえいしじょう) 、末次城(すえつぐじょう)※出雲国松江城との混同?

所在地:鳥取県西伯郡大山町末吉ほか

築城年:1274年(文永11年)以降 ※蒙古襲来以降の築城とも云われる。

廃城年:1602年(慶長7年)頃?

築城主:不明 ※山中幸盛による改修・防衛力の増強有(元亀年間の尼子再興戦における末吉村、国信村の城砦化)

城 主:(尼子氏)神西元通山中幸盛(毛利氏)福頼左右衛門尉神西元通

形 態:平城・海城

遺 構:郭跡、石垣(礎石)、土塁、空堀、堀切

現 状:住宅地、田圃、畑地、国道、町道、堤、水路

種 類:史跡指定なし

【参考文献】

・陰徳太平記・国信神社鎮座物語・老翁物語・萩藩閥閲録・伯耆民諺記

・伯耆民談記

・汗入史綱(昭和12年9月:国史研究部 本田皎)

・町政百周年記念 淀江風土記(平成元年12月 淀江町役場)

・大山町文化財ガイドマップ

【城娘】

 

【 縄張図 】

末吉城略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

文永年間

弘安年間

不明

元亀2年

1571年

6月、尼子再興戦で尼子氏の遺臣、山中幸盛が毛利氏から奪還した3城の一つとして伯耆国淀江城、伯耆国稲吉城と共に記述される。

毛利方へ降っていた神西元通が再び尼子方へと寝返り、大山寺経悟院の支援を称して送り込まれた山中幸盛と共に国信村を城砦化し、寡兵ながら毛利氏へと抵抗した。

 

8月18日、山中幸盛が当城での戦いで敗れ捕縛される。

(8月21日の落城とする説、本拠の出雲国新山城で捕らえられたとする諸説あり)

 

尼子残党掃討後の詳細は不明だが、毛利方は当城を陥とすと続けて伯耆国寺内城を攻めており、西伯耆、或いは伯耆・因幡両国から尼子氏の勢力を一掃した頃に諸城と揃って廃城されたと考えられる。

 

吉川元春によって末吉城の跡地に美甘与一右衛門の忠義を称え、非業の死を悼んで碑が建てられたとも云われる。

【 写 真 】(訪問日:2013/09/08】

美甘塚(新設)

本来の美甘塚(五輪)

空堀を利用した道路(西側)

空堀の土壁(国道9号以西)

土塁の礎石(国道9号以西)

土塁の礎石(国道9号以西)

土塁の礎石(国道9号以西)

堀切(国道9号以西)

堀切(国道9号以西)

水濠(国道9号以西)

集落内の水濠(国道9号以東)

集落内の水濠と郭(国道9号以東)

土塁と武者隠しの郭(国道9号以西)

土塁と武者隠しの郭(国道9号以西)

武者隠しの郭(国道9号以西)

北限の土塁(国道9号以西)

土塁(国道9号以西)

北限土塁の礎石(国道9号以西)

畑地の土塁(国道9号以西)

集落内にある石棺の蓋

集落内の五輪塔(国道9号以東)

集落内の五輪塔(国道9号以西)

石塁と切り通し(国道9号以西)

石塁と切り通し(国道9号以西)

若之宮入口(集落内)

若之宮境内の様子

若之宮境内の様子

若之宮境内の門柱跡

若之宮の鳥居

若之宮の水濠

集落内の土塁と切岸

集落内の土塁と切岸

集落内の様子

集落内の小祠

集落内の石塁

集落内の石垣

集落内の石垣

集落内の土塁

南限の郭

南限の郭と堀跡