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HOME > 伯耆古城図録 > 伯耆古城図録 ~西伯郡大山町篇~ > 旧西伯郡名和町 > 富長城

◆ 富長城

【 概 略 】

主郭跡に富長神社が鎮座する。

1274年(文永11年)の文永の役、1281年(弘安4年)の弘安の役と二度にわたる蒙古襲来に対する海岸線の防衛強化のために築城された一城が始まりではないかと推定されている。

 

文政元年の因伯古城跡図志には以下の記述が見える。

「富長村古城跡、福頼左衛門尉居城と申伝え当時社地となり森あり。高さ三間許、前は往来なり。近辺竹木あり、後は直ちに海なり。海辺より古城まで高さ二十間許、長さ六十間許、横五十間許」

 

城主として福頼左衛門尉の名が見えるが、国信村の字名「左右衛門屋敷」に居住した福頼左右衛門尉が推測される。

 

汗入史網では名和氏の家臣、荒松兵庫の居城とされ船上山の合戦では軍事拠点の一つと推定している。

 

大山寺文書では名和氏没落後は伯耆山名氏配下、福頼沙弥の支配地とされ、1524年(大永4年)の大永の五月崩れまでは福頼氏が当城周辺を治めたと推測される。

※大永の五月崩れの後、福頼氏尼子氏に降伏した説と、降らず国外に退去したとする説がある。

 

主郭に鎮座する現在の富長神社の社殿は1659年(万治2年)に町内の古御堂部落にあったものを移築したとある。

神社本殿には陣屋があったとも伝わり、北東には駒井刑部の駒の馬屋、馬飼場があったと伝わる。

駒井刑部がいつの時代の人物かは不明。

 

廃城年は1524年(大永4年)と推定されている。

廃城から神社が移築されるまでの間、畑にならず改変は行われなかったとしている。

【 遠 景 】

城域は富長神社

富長神社

左の道は空堀を埋めたとする

鳥居右手に一里塚

【 見どころ 】

富長神社

城域のほとんどが富長神社の境内となります。

南側の舗装道路は空堀を埋めた跡と云われ、主郭を囲む南面の土塁と外堀の高低差は10m以上あったと思われます。

【 概 要 】

名 称富長城(とみながじょう)

所在地:鳥取県西伯郡大山町富長

築城年:1331年~1334年(元弘年間) ※蒙古襲来に対して築かれたと云われる説。

    1500年(明応年間)頃 ※福頼左衛門尉による増改築とする説。

廃城年:1524年(大永4年)

築城主荒松氏

城 主:(名和氏)荒松氏荒松兵庫(伯耆山名氏)福頼沙弥(毛利氏)福頼左衛門尉(不明)駒井刑部

形 態:平城・海城

遺 構:郭、土塁、虎口、堀、掘切、空堀、石垣(空堀他、損傷の激しい箇所は地元住民が修復)

現 状:富長神社、山林、道路

種 類:富長町指定文化財(現大山町指定文化財):昭和57年11月19日指定

【参考文献】

・伯耆民諺記・因伯古城跡図志・富長神社由緒書・鳥取藩史

・汗入史綱(昭和12年9月 国史研究部 本田皎)

・大山寺文書(応永廿九年)・汗東神社取調帳

・ふるさと古城史⑯(佐々木 謙)

【城娘】

 

【 縄張図 】

富長城略測図

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

鎌倉時代

不明

元弘年間

1331年

1334年

不明

不明

明応9年

1500年

大永4年

1524年

不明

不明

不明

不明

現在の神社本殿の場所に陣屋が築かれていたと云われ、駒井刑部という人物の「駒の馬屋」「馬飼場」があったと伝わる。

【 写 真 】訪問日:2013/05/17、2014/09/21

南側の切岸は要害坂、殿様坂とも

切岸の礎石

東堀の北側

東堀(橋上から)

主郭の様子

主郭の様子

主郭の様子

主郭の土盛(駒の馬屋・馬飼場周辺)

主郭の礎石(駒の馬屋・馬飼場周辺)

土塁跡(西側)

物見台跡(櫓跡)

西の平入虎口(伝説では密使門とある)

主郭と西の郭跡を隔てる空堀(西堀)

土塁(南側)

西の郭跡(馬場)