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◆ 八橋城
【 概 略 】
陰徳太平記などでは大江城(大江の城)と記述される。
伯耆民談記では本丸と二ノ丸が存在し、南の端に井戸、周囲に堀を巡らせ、東に大手門があったことが記述に見える。
また、二ノ丸の下(現在の八橋駅舎周辺)にも郭跡があったとされる。
築城主は伯耆山名氏の重臣、行松正盛とされ、伯耆国尾高城と同様に行松氏代々の家城と云われる。
1524年(大永4年)の尼子氏による伯耆侵攻(大永の五月崩れ)で落城、城主の行松氏も国外へ退去すると尼子家家臣の吉田左京亮が居城としている。以降、尼子氏は当城、伯耆国羽衣石城、伯耆国泊城の3城を拠点とし東伯耆の支配体制を固めている。
天文年間(1532年~1555年)に吉田左京亮が播磨国にて討死。子の吉田源四郎が城主となった。
1564年(永禄7年)、播磨国にて吉田左京亮を討った仇敵、三村家親が伯耆国法勝寺城へ侵攻すると吉田源四郎は援軍として出陣するが、法勝寺城は落城している。
1565年(永禄8年)、毛利方の出雲国月山富田城包囲戦の前段階として出雲国と伯耆国との補給路を絶つため、尼子方の伯耆国内における残存戦力であった伯耆国江美城、伯耆国不動ヶ嶽が続けて落城。孤立した当城も攻撃を受け落城している。
落城寸前、城主の吉田源四郎は残存兵200騎をまとめ敵中突破を敢行し、尼子氏の家城、月山富田城まで落ち延びている。
月山富田城の尼子氏が降伏した頃、毛利方の武将、杉原盛重が城主となっている。
杉原盛重の後、南条氏の南条元信、中村家の中村一栄、その子の中村栄忠、美濃国の市橋長勝、池田家の池田長明らが城主として短期間で入れ替わり、最終的に池田家の家老、津田元匡が陣屋を構え、以降は津田氏の知行となり、自分手政治による委任統治が明治時代まで続いた。
現在はJR山陰本線の敷設工事による開削及びJR八橋駅の建設によって南北が分断、北側に二つの郭跡が残る。
線路で分断された南側にも郭跡が残っていたとされるが近年の宅地造成によりほぼ消滅している。
伯耆民談記の記述より、残存する郭跡の西側を主郭、東側を二ノ丸と伝えているが、戦国期の縄張なのか、廃城後の陣屋としての縄張を指すのかは不明。
八橋城山稲荷神社への山道脇にはニノ丸の石垣や礎石の残骸が点在し、整った石垣跡は市橋長勝が改修を施したものとも云われる。残存遺構も改変著しく、八橋城山稲荷神社が鎮座する郭跡は二ノ丸ではなく櫓台など別の役割を持った郭跡とする見方も。
ニノ丸の南側~東側にかけて土塁のような土盛も見えるが、これは線路敷設時の切り通しによる改変(土留め)が考えられる。
ニノ丸から西へ登ると主郭となり、神社の鎮座する郭跡の麓に礎石の残骸が見える。
主郭の「酒井片桐飛行殉難碑」は1932年(昭和7年)に飛行機墜落で亡くなった新聞社の飛行士、酒井憲次郎と片桐庄平を偲んで建てられた慰霊塔。
【 遠 景 】
【 見どころ 】
主郭の石垣
残存する丘陵の西側、主郭と推定されている郭跡には整備された石垣が残ります。
西側と東側の郭跡の西側にも一部、石垣を見ることができます。
北側はJR山陰本線の線路敷設、駅舎の建築。南側は宅地の造成により、殆どの遺構が消滅してしまいました。
線路を挟んだ南西には歴代城主の菩提寺とする体玄寺があり、杉原盛重の実墓があると伯耆志に記述が見えます。
体玄寺も当城域内に所在した施設の一部と考えられます。
【 概 要 】
名 称:八橋城(やばせじょう)
別 名:大江ノ城/大江城(おおえのしろ/おおえのじょう)、立石城(たていしじょう)、津田城(つだじょう)、八橋陣屋(やばせじんや)、はやなせの城、やなせ城
所在地:鳥取県東伯郡琴浦町八橋
築城年:室町時代
廃城年:1617年(元和3年)
築城主:行松正盛
城 主:(伯耆山名氏)行松正盛、行松氏(尼子氏)吉田左京亮、吉田源四郎、福山茲正、横道高光(毛利氏)杉原盛重、杉原景盛(南条氏)南条元信(中村氏)中村一栄、中村栄忠(市橋氏)市橋長勝(池田氏)池田長明、津田元匡、津田氏
形 態:平山城
遺 構:郭跡、石垣、礎石
現 状:JR八橋駅、八橋城山稲荷神社、酒井片桐飛行殉難碑、公園、山林、原野
種 類:東伯町指定史跡(現琴浦町指定史跡)(昭和49年5月1日指定)
【参考文献】
・伯耆志・伯耆民談記・陰徳太平記・吉川家文書
・鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)
・東伯町誌(昭和43年発行:東伯町誌編さん委員会)
・東郷町誌(昭和62年12月発行:東郷町誌編さん委員会)
【城娘】
【 地 図 】
【 年 表 】
年号 | 西暦 | 出来事 |
---|---|---|
室町時代 |
不明 |
|
大永4年 |
1524年 |
大永の五月崩れにより落城し尼子領となった。 吉田左京亮が居城し、西伯耆の3郡を支配したとされる。 |
天文年間 |
1532年 ~ 1555年 |
|
永禄7年 |
1564年 |
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永禄8年 |
1565年 |
毛利家の家臣、香川光景が伯耆国不動ヶ嶽を攻略すると続いて当城を攻撃。 劣勢極まった城主の吉田源四郎は城兵200余騎を率いて毛利軍の包囲網を破り、尼子氏の拠点である出雲国月山富田城へ落ち延びた。 当城は毛利方の領有となり毛利家の家臣、杉原盛重が城主となった。 |
天正8年 |
1580年 |
4月24日、南条元続、南条元清兄弟が二度に渡って当城を攻撃。 |
天正9年 |
1581年 |
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天正12年 |
1584年 |
春頃、南条元続が八橋より赤崎原へ出陣とある。 毛利氏と豊臣氏の「芸京和睦」で当城は南条氏が領有となる。 |
慶長5年 |
1600年 |
関ヶ原の戦いで西軍に所属した南条氏は改易。 伯耆国は中村一忠の所領となり、中村一栄が3万石を知行し城主となる。 |
慶長9年 |
1604年 |
中村一栄が病没。家督を継いだ中村栄忠が城主となる。 |
慶長14年 |
1609年 |
中村一忠が病没。中村家は嫡男無しとされ断絶。 美濃国今尾より市橋長勝が城主として封じられている。 |
元和元年 |
1615年 |
江戸幕府より一国一城令が出される。 |
元和3年 | 1617年 | 鳥取藩主、池田光政の所領となり池田長明が居城。 この年に廃城とされ、建物の一部を残し政務に当たったと推測される。 |
寛永9年 |
1632年 |
鳥取藩主、池田光仲の所領となり、家老の津田元匡が陣屋を設け自分手政治によって当地を治めた。その後、明治まで津田氏による委任統治が続いた。 |