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HOME > 伯耆古城図録 > 伯耆古城図録 ~米子市篇~ > 米子市 > 粟嶋水塞

◆ 粟嶋水塞

【 概 略 】

中海の海上を監視するための洋上水塞群の一つとして現在の粟嶋神社が鎮座する粟島山(餘戸山、明神山とも)に城砦が所在し、岸壁や水辺には走舸(艇)や赤馬を係留するための船着場が存在したと推測される。

 

伯耆志では出雲風土記からの引用として往古は中海に浮かぶ孤島で出雲国意宇郡に属しており、何時から会見郡に属したか不明としている。

宝暦年間(1751年~1763年)の干拓によって伯耆側と陸続きになり、それまでは渡し舟でのみ参詣が可能であったと云われる。

 

伯耆志 粟嶋村の条

「村名の義下に見ゆ。土人或は略してアジマと呼ぶ。粟嶋は今社の在る山なり。上古は海中の孤島にて出雲に属す。故に出雲風土記意宇郡に「粟島有椎松多年木小竹眞崎木葛」と見へたり(略)何れの頃、当郡に属せしにや。寶暦の頃までは此地に一川ありて参詣の人、舟にて渡りしか故に三文渡しと呼ひしか(賃三銭にて渡りしなり)。新田墾発するに従ひ遂に陸地となりしと伝へり(略)」

 

750年(天平勝宝2年)頃から島の周辺に人が住み始めたとされ、10件程度の漁民が村を形成していたとも云われる。

 

1331年(元弘元年/元徳3年)頃には山麓北側の麓に小さな社殿が在ったようで、1332年(元弘2年/正慶元年)に後醍醐天皇が隠岐配流となった際、使者を遣わせ海上安全を祈祷したとされる。(一説には後醍醐天皇を乗せた船が直々に訪れ、礼拝を行ったとしている)

 

1520年(永正17年)、尼子経久が弓ヶ浜で毛利軍と戦った際に兵火に遭い社殿が焼失し、1524年(大永4年)に尼子経久が社殿を再興としている。(粟嶋神社社伝)

伯耆志では大永年間に尼子経久による兵火によって焼失としており、一帯を平定した後に社殿を再興し若干の供田を行ったとある。

 

伯耆志 粟嶋村の条

「粟島山の頂に在り。一山皆社地にして東西四十間、南北八十間許。樹木繁茂す。上る事二丁許なり。往古は山下に在りしを大永中尼子経久の兵火に罹り(後経久再建して御供田若干を附せしと云えり)。又、元禄中焼失す。社家議して今の所に遷すと云へり(略)」

 

粟嶋神社の社伝では弓ヶ浜で毛利氏尼子氏が戦ったとしているが、永世年間に弓ヶ浜(夜見ヶ島、餘戸濱)で争ったのは尼子氏伯耆山名氏であることから誤伝と考えられる。

 

毛利氏吉川氏が領した頃の記述は見えないが、中村一忠加藤貞泰池田由成など伯耆国米子城の城主や鳥取藩主の池田光仲より寄進や社殿の再建を受けたとしている。

 

1520年(永正17年)或いは1524年(大永4年)、1689年(元禄2年)、1922年(大正11年)12月20日に社殿は3度~4度の火災に見舞われたことが記録に見える。

 

記録に見えない尼子氏毛利氏が山陰地方で争う頃は中海の水上交通を支配する上でも重要な地点あり、夜見ヶ島など弓浜部、粟島、萱嶋、松島、島田の半島部が直線で並ぶ当城砦周辺は特に重要な場所であったと推測される。

一部に誤記も見られるが粟嶋神社の社伝を頼ると社殿が兵火に遭い焼失した事が見えることから、中海水道の領有を巡り激しい争奪戦が繰り返されたと想像するに難くない。

 

人魚の肉に纏わる不老長寿の伝説、八百比丘尼の伝承が伝えられる一考として漁民などを寄せ付けない意図も推測でき、水軍基地の隠蔽を図っていた可能性も推測される。

 

干拓によって往時の形状は不明だが山麓の西側と南側に船着場の名残のような地形が見られる。

現地の調査や水軍の存在を伺わせる伝承など城砦に関する情報が不足しているため未解明な部分も多いが、波岩の一部に矢穴の痕跡が残ることから船着場や造船場など人工的な造作物の存在が伺える箇所も見える。

【 遠 景 】

南西からの遠望

南東からの遠望

北東からの遠望

北からの遠望

【 見どころ 】

粟嶋神社(粟島神社社叢)

粟嶋神社の鎮座する粟島山一帯が県指定天然記念物の指定を受けています。

伯耆志(出雲風土記)にも当時から椎(しい)、松、葛(くず、もち)など生えていたことが記述に見えます。

山頂の本殿にお参りするためには標高38m(36m?)を188段の階段で踏破しなければいけません。しかもこれがかなりの急勾配。

登られる前には一呼吸置いて、息を整え覚悟を決めてから登られることをお勧めします。

【 概 要 】

名 称粟嶋水塞(あわしますいさい)※仮称

所在地:鳥取県米子市彦名町

築城年:不明

廃城年:不明

築城主:不明

城 主:不明

形 態:水塞

遺 構:郭跡

現 状:粟嶋神社社叢、山林、干拓地

種 類:県指定天然記念物:昭和57年4月9日 ※粟島神社社叢として

【参考文献】

・伯耆志

・粟嶋神社社伝

【城娘】

【 縄張図 】

不明

【 地 図 】

【 年 表 】

年号 西暦 出来事

天平勝宝2年

750年

元弘元年/元徳3年

1331年

元弘2年/正慶元年

1332年

永正17年

1520年

大永4年

1524年

慶長6年

1607年

元和2年

1616年

元和5年

1619年

寛永7年

1616年

慶安元年

1648年

鳥取藩主、池田光仲により粟嶋神社の社殿が再建。

【 写 真 】(訪問日:2019/06/09)

粟嶋神社正面と麓の鳥居

本殿への参道(188段の急階段)

本堂への階段(上から)

階段の中ほどに踊り場

参道の途中から荒神宮へ

荒神宮の鳥居

荒神宮

参道の途中から荒神宮腹蛇神祠

荒神宮腹蛇神祠の入口

荒神宮腹蛇神祠への道

荒神宮腹蛇神祠付近の郭跡

荒神宮腹蛇神祠付近の帯郭

荒神宮腹蛇神祠

荒神宮腹蛇神祠付近の郭跡

荒神宮腹蛇神祠付近の郭跡

本殿の正門

本殿付近の様子

本殿付近の様子

遥拝所(伊勢神宮)

遥拝所(出雲大社)

参道西側の帯郭

参道西側の帯郭

本殿から南側へ

南側の郭群の通路は石段状

南側の郭群は岩肌が目立つ

南側の平坦部(遠見郭)

遠見郭から米子城方面の遠望

遠見郭から萱嶋

麓から萱嶋

遠見郭から安来方面の遠望

遠見郭から米子城方面

中海から米子城方面

南側の岸壁

南側の岩礁

麓の豊受宮

境内の様子

忠魂碑

左が八百姫宮・右が大岩宮

大岩宮と鳥居

大岩宮

大岩宮裏の波岩

西側麓の波岩

西側麓の波岩

西側麓の波岩(浸食か矢穴か不明)

西側麓の波岩を利用した通路

西側麓の矢穴(横向)のある波岩

西側麓の矢穴(横向)のある波岩

西側麓の矢穴(横向)のある波岩

西側麓の矢穴(縦向)のある波岩

西側麓の矢穴(縦向)のある波岩

静の岩屋付近

静の岩屋付近

八百姫宮

静の岩屋

静の岩屋

静の岩屋付近から南側岸壁への道

南東へ少し離れた場所に祠

南東へ少し離れた場所に祠

米子城から粟嶋と萱島

米子城から粟嶋と萱島

【 写 真 】(訪問日:2012/05/04)

南西からの遠望

粟嶋神社本殿

静の岩屋付近

静の岩屋付近

八百姫宮

八百姫宮