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羽倉孫兵衛元蔭(はくら-まごべえ-もとかげ)

【氏】不明【姓】不明【名】羽倉【通称】孫兵衛【諱】元蔭(元陰)

【別名】羽倉孫兵衛(はくら-まごべえ)

【所属】尼子氏

【官位】不明

【出身】美保関

【生年】不明

【没年】1571年(元亀2年)3月19日

尼子氏の武将で出雲国和久羅山城の城主。

尼子氏と毛利氏の激戦となった布部山の合戦において東の中山口に備えた武将の一人として登場し、尼子氏滅亡後の再興戦では秋上宗信の部将。

 

1571年(元亀2年)3月、伯耆国米子城飯山城)攻めの総大将として、目賀多采女允同段右衛門高尾右馬允ら五百余名を率いて小船十艘余りで水路から米子へと討ち入った。

※一説には当時の要衝であった伯耆国尾高城の攻略が目的であり、米子を襲撃したのは尾高城の城主、杉原盛重の出方を見極めるための陽動であったとされる。

 

同年3月18日の夜襲では、防衛を指揮した米子城の城番が福頼元秀福頼孝興)か福原元秀で戦いの内容が異なって記述されている。

 

福頼元秀が城番の場合、二百余名の迎撃部隊を率いた福頼元秀を打ち破り、退却する部隊を追撃し更に数名を討ち取っている。

福頼元秀は城内へと逃げ帰り篭城の構えを見せると、米子城下(米子町周辺)の民家へ焼討を仕掛けている。

米子市史(昭和17年8月:米子市役所)では福頼元秀を戦死としている。

 

福原元秀が城番の場合、先に米子城下への焼討が行われており、福原元秀の率いた部隊が消火作業に気を取られている隙に襲撃し、福原元秀を討ち取っている。

 

福頼元秀の率いた迎撃部隊を退けた後、或いは福原元秀を討ち取った後、いずれも米子城飯山城)を攻略することなく、焼討の成功に満足し撤兵している。

※この動きから米子城飯山城)の攻略・領有よりも尾高城に対する陽動・牽制が本来の目的であったと推測できる。

 

その後も散発的に米子城下や周辺集落への焼討を行ないつつ毛利方の軍勢の動向を探るが、目立った援軍がないことから尾高城の城主、杉原盛重の不在を察し、そのまま五百余名を率いて尾高城の攻略へと向かっている。

尾高へと向かう道中も稗津(日吉津)の民家へ焼討を行なうなど用心深く進軍を進めている。

 

同年3月19日の朝、芸陽(吉田)から杉原盛重尾高城へ帰城。

菖蒲左馬允入江大蔵少輔吉田元重を大将に七百余名の兵を以って迎撃、激しい合戦となった。

 

戦場では岩田藤次郎の膝の節を突き抜き重傷を負わせ、続いて勇将として名の通った別所九郎兵衛原権六を討ち取り、その他数名にも手傷を負わせている。

この合戦で味方が徐々に劣勢に追い込まれると日吉津の浜まで退き、味方を舟に乗せ退却させている。

浜まで退いた味方を逃がした後は敵地に残された味方の救援のため戦場へと戻ると、孤立無援の中にあっても鬼神の如き武勇を振るった描写が見え、槍の柄が2つ、3つに打ち折れると3尺余りの太刀を抜いて敵の槍14、15本を打ち切り、24、25本の長武具に太刀で渡り合った豪傑の姿を中国の秦~前漢の武将、樊噲に例えている。(陰徳太平記 巻四十八 羽倉元蔭戦死之事)

 

最期は毛利方の敵兵に包囲され、乱戦の末に杉原盛重の部将、岩田藤次郎に首を斬られ討ち取られた。

岩田藤次郎に首を取られる寸前、既に4~5本の槍によって突き伏せられた状態であったとされる。

 

力は人に勝り、鑓や剣技も達者な勇将と評され、討たれる間際の奮戦・振る舞い、特に味方の槍14、15本の全てに太刀痕が付いていたことに杉原盛重は「哀剛の武者や(なんと剛の者だろう)」と感嘆し、落涙するほどその武勇を称えたという。

 

日吉津村富吉に歯の神、羽倉地蔵として現在も祀られている。

 

日吉津の浜での戦闘の描写では異説もある。

一度は舟に乗り退却を試みたが、戦場に残された部下を救い出すために舟を降り戦場へ戻ったとする説に対し、浜まで退いた時には既に味方の舟は沖まで離れており、進退窮まったため斬り死にを覚悟した説も見える。

こちらの説では尼子残党と称するに相応しく、統制の取れない烏合の衆であったことを伺わせる。