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安井清一郎(やすい-せいいちろう)

【氏】不明【姓】不明【名】安井【通称】清一郎【諱】不明

【別名】安井清十郎(やすい-せいじゅうろう)、安井清次郎(やすい-せいじろう)

【所属】中村氏

【官位】不明

【出身】不明

【生年】不明

【没年】1604年(慶長9年)

米子城主、中村一忠の側近。文書によっては清十郎(せいじゅうろう)、清次郎(せいじろう)とも。

 

横田村詮の藩政手腕に嫉妬し、自身の出世の障害になるであろうとの浅慮から天野宗杷らと謀って暗殺計画を企てたとされる。

横田村詮を貶めるための讒言を中村一忠へ吹き込み、暗殺計画の主犯格とされることから佞臣と評される。

 

山名氏、尼子氏、毛利氏(吉川氏)、徳川氏(正式な安堵は1610年(慶長15年)から)より代々寺領を安堵されていた大山寺の僧、豪円とは懇意にしていたとされ、検地による大山寺領の一部没収に対して恨みを持った豪円から唆されたことが騒動の引き金になったとも云われる。(横田村詮へ反感を持っていた野一色采女など他にも暗殺計画の黒幕とする説がある)

 

横田村詮の暗殺では、横田村詮の刀を持った侍童を道家長左衛門と共に斬り伏している。

(文書によっては横田村詮に反撃され右こぶしを斬られる侍童を斬り伏せたのは天野宗杷など記述が混同している)

 

米子城騒動後は禄高が700石から6,000石へと加増されていることから横田村詮の地位を受け継いだことが伺える。

矢継ぎ早の俸禄加増については中村一忠に取り入ったとし、このことが私利私欲に溢れた佞臣とする根拠とされている。

 

米子城騒動の事後処理では騒動の経緯について一切の取り調べは行なわれず、反逆罪で天野宗杷と共に即刻切腹の沙汰が徳川家康より直々に言い渡され、切腹したとされる。

 

異説には騒動後、幕府からの切腹の沙汰を恐れて出仕せず、屋敷に引き籠っている。

再三の出仕要請にも応じず屋敷に籠もっていたが中村一忠の怒りに触れ、依藤孫兵衛が討手として遣わされている。

その後も説得を拒み門を閉ざしたため、依藤孫兵衛は向かいの屋敷(安井の屋敷とも)の屋根から安井の屋敷に矢を射掛け、2射目が命中とある。

 

矢傷を負っても屋敷からは出ようとせず、業を煮やした依藤孫兵衛により屋敷へと火をかけられ、炎から逃げてきたところを捕らえ城内にて切腹させられたとも、燃え盛る屋敷の中で父子揃って切腹したなど諸説が伝わる。