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古曳長門守吉種(こびき ながとのかみ よしたね)

【氏】不明【姓】不明【名】古曳【通称】長門守【諱】吉種

【別名】木引吉種/古引吉種(こびき よしたね)、古引吉雅/吉川吉雅(こびき よしまさ/きっかわ よしまさ)

【所属】尼子氏⇒毛利氏(杉原氏)⇒吉川氏

【官位】長門守

【出身】不明

【生年】不明

【没年】1592年11月24日、1592年11月26日(文禄元年)

吉川氏の家臣。元々尼子氏に仕えたとも、毛利氏杉原氏に仕えたとも、仕官経緯について諸説存在する。

伯耆国石井要害、伯耆国戸上城、伯耆国飯山城に在番し、伯耆国米子城の城代を務めた人物。

 

天正年間、吉川広家の被官として3万石を拝領し会見郡を治めたとされる。(異説には西伯耆6万石とも)

伯耆民談記では「古引長門守吉雅」とされ、一本には「吉川長門守吉雅」とし、吉川氏の一族とする説もあるとしている。

 

尼子氏に仕えた武将としては1564年(永禄7年)、尼子氏毛利氏による伯耆国手間要害周辺での戦に於いて大勢が毛利方に傾いた頃、毛利氏に与し杉原氏の臣下となっている。

 

1566年(永禄9年)、戸上城に在番とあるが1571年(元亀2年)、尼子再興戦によって一時落城とある。

 

1582年(天正9年)1月頃、杉原盛重が没すると吉川広家の臣下となる。

 

1588年(天正16年)、戸上城石井要害を管理、米子城飯山城)の城代として3万石を拝領し口会見を治めている。

 

1589年(天正17年)、米子城の城域内(現在の城山大師向かいの医療施設周辺の字名が浄昌寺)に母、浄昌院の菩提寺となる覚応院浄昌寺を建立。

湊山と飯山の中間ほどに立地し、砦としての機能を持たせたことが推定される。

 

1591年(天正19年)、吉川広家が出雲、隠岐、西伯耆の3郡を領すると吉川広家の被官となり、戸上城へ在番し会見郡を治めたとある。一説にはこの頃に吉川氏の代官として6万石を拝領していたとする。

同年、米子城の築城(拡張)命令を受け築城奉行の山県九左衛門と共に設計へと着手している。

 

1592年(天正20年、文禄元年)、唐入りのため朝鮮半島へ出兵。

同年11月24日、現地にて戦没とされるが、一説には同年11月26日の碧蹄館の戦いでの戦死とも伝える。

 

戦場を往来する際は観音寺の仏像一基を背負っていたとされ、この仏像が覚應山本教寺の本尊と云われる。

覚應山本教寺には朝鮮半島での討死について記録が残る。

 

覚應山本教寺 寺伝

文禄元壬辰年、太閤秀吉公に従名、同十一月朝鮮国に於いて討死。

 

法号については以下の2号が見える。

「不染院殿實性法蓮日栄大居士」(覚應山本教寺の墓碑)

「不染院殿前長州実性法蓮大居士」(尾高の里収録)

 

戦没後、覚応院浄昌寺は灘町北東の高砂付近に移され、この時に覚應山本教寺と改称とされている。

 

慶長年間は中村一忠の頃、横田村詮による城下整備により三度移転し現在の場所へ移されている。

 

娘が正室であった進少納言を徳長村に匿っていたともされるが、慶長年間には横田村詮の手勢によって捕らえられ磔にされている。

 

夫人は1593年(文禄2年)、吉川広家から遺児の養育について打診があったがこれを断り、娘と共に毛利氏の殿医であった古市村の牧野家に身を寄せている。これには遺訓に「子孫は弓・槍・剣・戟などの武術は一切無用」とあったことが影響しているとされ、子の古曳種秀も帰農している。

後に牧野氏の計らいで上境村に閑居(実久村とも)、大袋村に庵寺を建立し仏門へ帰依し1595年(文禄4年)11月に入寂とある。

娘は13歳で榎大谷牧野家四男へ嫁付、古曳家を継いだとされる。

 

郷土史では築城の名人とされ、石井要害では水濠の設計、戸上城では法勝寺川(尻焼川)に面した登り土塁など、築城技術に関して豊富な知見、知識を有したことが考えられる。

米子城の設計に於いても加茂川を用いた内堀と外堀の配置、中海側に面した尾根へ登り土塁(後の登り石垣)の設置など、これまでの築城技術を総動員し海城としての機能を高めたことが推測される。